ファイナンス 2025年7月号 No.716
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050100950005101520253035404550556065707580自動車鉄道内航海運バス乗用車鉄道1895年%旅客輸送の分担率貨物輸送の分担率明明治治大大正正昭昭和和戦戦前前高高度度成成長長戦戦後後路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 (出所)佐藤正弘(1996)「鉄道と海運」、西川俊作、尾高煌之助、斎藤修編『日本経済の 200 年』日本評論社、pp.321-337 から筆者作成図 2 貨物・旅客輸送の分担率がその時代の中心地という事実が本連載の大前提だが、多くの都市では地元を代表する銀行の初代本店がある。そこが当時の経済の中心地だったことを意味する。工業をみると、城下町の場合それは製販どころか職住も未分化の職人町である。桶町、鍛治町、大工町など町名にその名残をとどめる。商業はどうか、人が行き交う街の中心は商業の収益性も高い。収益性が高いところは地代が高く、ひいては地価も高くなる。銀行以外で、当時の一等地に残る店舗で多いのは、老舗の造り酒屋(酒蔵)、材木店、和菓子店そして呉服店だ。これに続く「承」は鉄道開通で始まる新章だ。百貨店の登場、路面電車の開通に伴って街の構造が少しずつ変化していく。呉服店の一部は明治の終わり以降、百貨店に発展した。銀行がビジネス街の象徴なら、百貨店は商業地の象徴だ。クラシックな外観の百貨店がある場所は大正・昭和の中心地である。銀行本店が街の中心だった時代とは一世代分ほど下り、鉄道駅の登場や路面電車の開通等の影響もあって、明治時代の中心地から若干移動している。例えば、東北一の歓楽街で知られている仙台の「国分町」は戦前の銀行街でもある。藤崎百貨店や三越仙台店は国分町から 1 筋東の「一番町」にある。銀行と百貨店が隣り合う都市もある。東京は日本橋の三越と三井本館は道路を挟んで隣同士だ。同じ位置関係は鹿児島銀行と山形屋百貨店、山梨中央銀行と(旧)岡島百貨店にもある。激変するのは戦後復興期とそれに続く高度成長期である。地域経済の激変が土台にあるのは論を俟たない。城下町時代の区画に戦後の区画が上書きされた。まずは戦後復興のシンボルとして、県都を中心に幅員50m の駅前大通りが敷設された。貨物輸送が内航海運からトラック運送に置き換わったこともあり、水路が埋め立てられる。背景には急速な都市化、人口流入に伴う水質汚濁の問題もあった。郊外電車網が広がり、都市周辺から駅前に人が集まるようになった。以前は郊外だった駅前が発展を始める。新興商業地だった駅前の盛り上げ役を担ったのは電鉄系百貨店、県外から進出してきた百貨店、そしての中心を探すのに金融業の理解が役に立つ。当地を代表する銀行の初代本店の所在地が当時の街の中心だったからだ。河岸や港が物流と流通の拠点だった時代、その後背地に卸市場ができ倉庫が集まった。卸市場といえば魚市場や青果市場である。市場の門前に仲卸業者が軒を連ね、倉庫の近くに銀行が集まる。これはなぜか。まずは移出業者が倉庫に荷物を預け、倉荷証券(預かり証)を受け取る。業者は為替手形を発行し、倉荷証券を付けて銀行に提出し、資金化する用事があった。要するに荷為替手形の割引という貿易事務を、内航海運の時代には国内でやっていたからだ。もう一つのテーマが「起承転結」、街の発展史を起承転結のストーリーで読みとく方法だ。起承転結の「起」は城下町の区画を残した近代の街である。はじめに街の軸を探す。だいたいは旧街道が軸となる。もう一つの軸は街の玄関口の河岸・港と旧街道を結ぶアクセス道である。二つの軸が交差するところ、言い換えれば陸路と水路の結節点がその街の中心だ。城下町なら「高札場」が立った。国道の起点の「道路元標」も手掛かりになる。地価が最も高い場所街の起承転結高度成長期に頂点を迎える「承」の章ファイナンス 2025 Jul. 65

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