ファイナンス 2025年7月号 No.716
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SPOT 新発田龍史 審議官に聞く、金融庁の過去と現在話をすると、「応仁の乱」を「先の戦」と呼ぶ京都人を見たような顔をされるのですが、当時、日本でも三洋証券や山一證券、北海道拓殖銀行などの金融機関が毎週のように破綻したのです。この結果、銀行の預金等の安全性に対する不安が高まり、一部の銀行では窓口に行列ができるなど取り付け騒ぎ一歩手前のような状況になりました。最終的には、当時の三塚大蔵大臣が、預金等の全額保護を宣言することで、一旦沈静化しました。その後、公的資金注入の議論が本格化することになりますが、このタイミングを境に、ニューヨークやロンドンに比肩する国際金融センターを目指す、という「前向き」な制度改革から、「後ろ向き」とは申し上げませんが、日本発の金融危機を起こさないための緊急対応に仕事のバランスが大きく変わったことを覚えています。1998 年 6 月には財金分離の結果、大蔵省から金融監督庁が分離されました。私は当時、大蔵省に残された金融企画局に所属しており、金融再生のための法制度づくりを担当するチームの一員でした。もっとも、様々な紆余曲折を経て、政府提出法案は廃案となり、与野党協議の結果、金融再生法と早期健全化法が成立する一方で、長銀(日本長期信用銀行)や日債銀(日本債券信用銀行)が破綻し、国有化されました。服部:新発田審議官は、2000 年前半に起こった、東京三菱銀行と三井住友銀行による UFJ の争奪戦の頃にも金融庁にいらっしゃいましたよね。UFJ 信託銀行の住友信託銀行への売却が決まりそうであったところ、最終的に UFJ 銀行が東京三菱銀行と合併し、現在の三菱 UFJ 銀行が生まれました。当時、大きく報道され、様々なドラマがあったとされます。新発田:当時は小泉政権で、郵政民営化が焦点となっていた頃です。少し遡ってお話しすると、直前に金融担当大臣であった竹中平蔵さんは、2004 年に「金融再生プログラム」を発表し、主要行の不良債権問題の解決を通じて経済の再生を企図しました。主要行の不良債権比率を 2 年半で半減させることを掲げ、資産査定の厳格化などを行いました。その中で、まず、りそな銀行が過小資本に陥り、公的資金を注入することとなりました。また、地方銀行の足利銀行が債務超過となったために国の管理下に置かれることになりました。その後、ご指摘の争奪戦に続いていきます。UFJ 銀行には公的資金が入っていたため経営健全化のためのいくつかの目標が課せられていましたが、それを達成することができず、経営責任を問われることとなりました。それに伴い、当初は UFJ 信託銀行の売却を巡る争いだったものが、最終的には UFJ グループ全体の経営権を巡る争いになったということです。この結果、現在の三メガの体制になっています。本件が問題になった当初は、私は銀行第一課の課長補佐として、本件を担当していた総括補佐のサポート役や代理をしておりましたが、その後、七条明金融担当副大臣の秘書官に異動したことで、より大きな視座で全体を見ることができました。服部:学生からみると、金融庁はどういうイメージでしょうか。学生:銀行の規制や監督をするというイメージですが、複雑な印象を受けます。新発田:金融庁の仕組みが複雑だと思われるのには大きく2 つの理由があると思います。一つには、発足以来組織の形が大きく変遷を遂げていることがあります。先ほどお話にあったとおり、もともと金融行政は大蔵省が担当していました。大蔵省には、銀行局、証券局という局が存在しており、加えて銀行局の中にある保険部が生保・損保を担当していました。銀行局内では、今のメガバンクや地方銀行については銀行課、信用金庫等については中小金融課、政府系金融機関については特別金融課といった具合に縦割りの組織編制になっていました。証券局では、証券会社を担当するだけでなく、東証等の取引所、企業会計や財務情報の開示制度についても担当していました。大蔵省時代は、局・課単位の縦割りで監督も制度の企画立案も行っていました。しかし、金融行政機構の見直しの議論が始まった際、当初は検査と監督、すなわちアンパイア(審判)とコーチの分離が求められました。その後、金融検査・監督機能の分離が求められ、1998 年に、金融庁の前身の組織である金融監督庁が、総理府の外局として設置されました。その背景には、1995 年に発覚した大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件の対応の遅れや、二信組の破綻、住専(住宅金融専門会社)問題ファイナンス 2025 Jul. 31なぜ金融庁の仕組みの理解は難しいか

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