ファイナンス 2025年6月号 No.715
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旧ユニード橘通3橘通2旧寿屋橘通5橘通4旧橘百貨店橘通1本町通上町橘橋44路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 HAROW高千穂通旧NTT農工↓勧銀DKB跡147跡日州跡図 3 旧宮崎農工銀行正 15 年(1926)、大蔵省の土地賃貸価格調査(1931)から同 11 年(1936)まで同じく橘通鹿児島本線の吉松駅から分岐する宮崎線の開通で宮崎駅が博多駅や小倉駅とつながった。汽船から鉄道の時代となり、宮崎の玄関口が赤江港から宮崎駅となった。大正 12 年(1923)には県土を縦断する日豊本線が完成。経済の一体化が進むとともに、オール宮崎の意識も高まった。翌年 4 月には宮崎町る。県庁所在地では最も遅い市制施行だった。図 2 を見るとわかるように、橘通一丁目の近辺には銀行が集まっていた。前月の都城も宮崎県なので金融史の基本は重なるが、今月は宮崎県の独立運動に重ねて記述してみたい。明治 9 年(1876)8 月の国立銀行条例の改正を契機に国立銀行の創業ブームが起き、明治 12 年(1879)12 月開業の第百五十三国立銀行で終了する。宮崎県が他県と異なるのは、国立銀行の創業ブーム期に宮崎県が存在しなかったことだ。県都と呼べるレベルの都市集積もなかった。小規模ながら旧城下町には国立銀行ができた。明治12 年(1879)に創業した飫肥の第百四十四国立銀行、挟んで別の町だった。遡れば別の藩だった事情もあり藩政期には両岸に橋がなく、架橋されたのは明治 13 年(1880)である。初代橘橋は医師の福島邦成が拠出した資金で架けられ、有料橋だった。一説には橘橋は祓詞の「橘」に由来する。宮崎市街を南北に貫くメインストリート、橘通は橘橋に続く道であることが命名由来だ。明治 33 年(1900)、日向汽船が設立され神戸、大阪、鹿児島、多度津行きの汽船が赤江港に就航した。大淀町が宮崎の玄関口だった。主税局統計年報をみると、明治 43 年(1910)の最高地価地点が宮崎町大字上別府とある。大事業報告書では、最高賃貸価格地点が橘通一丁目だった。その後、最高賃貸価格は昭和 6 年一丁目だった。大正以降、昭和初期は橘橋の北詰、県庁の南側に街の中心があった。中心が大淀川を渡った背景が、大正 2 年(1913)12 月の宮崎駅の開業だ。大正 5 年(1916)10 月、言わば独立記念日で、毎年 5 月になると県庁前庭の川越進の胸像前で献花式が行われる。宮崎市の前身となる宮崎町は明治 22 年(1889)5 月、町村制施行で上別府村とその他 5 町が合併して発足した。明治 32 年(1899)の宮崎県統計書で最高地価の場所だったのは「大淀」、当時の大淀町だった。橘橋を渡った大淀川の南岸で、河口に向かって城ケ崎、赤江港がある。大正 13 年の市制施行時に合併するまで川を改め宮崎市とな大淀川沿岸が街の中心だった時代金融の独立運動ファイナンス 2025 Jun. 59県庁市役所青空SC跡(旧)大成銀天街宮崎跡147跡日州↓日向中央↓日向興業旧宮崎本店山形屋跡147跡アミュプラザ(出所)筆者作成町名は旧町名山形屋街道筋(出所)筆者撮影高千穂通図 2 市街図

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