ファイナンス 2025年6月号 No.715
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はらえことばかしこイザナキ邪那岐大おどあわき戸波岐原」ニニ瓊杵尊ぷ別府村おび肥連載路線価でひもとく街の歴史のおおかみギノミコトか む や ま と い わ れ ひ このみことはらさ ど わ らかみべっむら図 1 みそぎ池神が黄泉の国で汚れた身の阿が宮崎県の高千穂に天下日本磐余彦 尊藩、薩摩藩、佐はモザイク状に各藩の飛び地が入り組んでいる状況だった。それぞれ独立心が強く、転じてオール日向国の意識が薄かった。廃藩置県に伴う明治 4 年11月の再編では宮崎県域に都城県と美々津県が置かれた。都城県は大淀川より南側の地域と鹿児島の大隅半島を合わせた県で、美々津県は大淀川から北側の県だった。明治6 年(1873)だ。宮1月の再編で、美々津県と都城県のうち日向国に属する部分が合併し、宮崎県となった。県庁は両県の境界だった大淀川の北岸に置かれた。住所は宮崎郡上元は延岡藩の飛び地だった。大淀川は舟運で栄えていたが、海運への連絡拠点となっていた赤江港は川の南岸、約1km 下流の河口にあった。港の手前にあった商人町を城ケ崎といい、港とともに飫肥藩領だった。今でこそ約40万人を擁する県都だが、当時は寒村に過ぎなかった。同じ時代、鄙びた場所に人為的に作られた街といえば横浜を思い出す。宮崎も人工的に作られた「首都」である。もっとも初代宮崎県の人口は40 万人を下回るほどで1つの県としては小さかった。そこで、明治 9 年(1876)8月の第2次府県統合で鹿児島県に編入されてしまう。編入翌年には戦争に巻き込まれる。明治10年(1877)土原の 2 月、西郷南洲が卒兵上京の意思を固め鹿児島を発つ。熊本で行く手を阻まれた西郷軍は熊本城を包囲したものの攻めあぐね、田原坂の敗戦以降は増強された政府軍に対する防戦に転じた。熊本から撤退し、5 月末から約 2 カ月の間、宮崎市街に本営が置かれた。その後、8 月16 日に延岡で解隊布告が出されるまで、主戦場は鹿児島県に編入されていた宮崎エリアだった。戦後、荒廃した県土の復興が進まないこと、道路や学校の整備などの予算配分が旧薩摩に比べて少ないことなどから、宮崎県の分離独立運動が起きた。後世「宮崎の父」と呼ばれる川越進の尽力で、明治 16 年(1883)5 月 9 日に再び宮崎県が成立した。この日はで、(祓掛けまくも畏き伊を清めたのが、「筑紫の日向の橘の小詞)である。筑紫島(九州)の日向国(宮崎県)の小戸(宮崎市街地)の阿波岐原にある江田神社のみそぎ池で禊をしたと伝わる。イザナギから天照大御神が生まれ、その孫の瓊る。その曽孫が神武天皇こと神崎神宮の地で発起して東征を始め、奈良の橿原神宮で初代天皇に即位した。宮崎は日本神話の舞台である。5 月 16 日に封切られた映画「かくかくしかじか」は同名のマンガが原作だ。作者で映画の脚本も手掛けた東村アキコ氏の美大受験からマンガ家デビュー期まで約 9 年間の自叙伝である。主人公の恩師、日高先生のモデルは画家の(故)日岡兼三氏だ。日岡絵画教室はみそぎ池から徒歩圏内で、原作、映画ともに近辺の風景が登場する。遠くにヤシの並木が見える、青空と照りつける日差しの下の畑の風景だ。日向国には延岡藩、高鍋藩、飫藩など多くの小藩が割拠しており、特に現在の宮崎市域第 64 回 宮崎県宮崎市第 64 回 宮崎県宮崎市独立運動でできた県近代宮崎の「独立」運動史近代宮崎の「独立」運動史2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D320D320D1,090C1,080C870C730C500D(出所)筆者撮影275D510C240E295E 58 ファイナンス 2025 Jun.路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街

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