ファイナンス 2025年5月号 No.714
98/112

連載PRI Open Campus 94 ファイナンス 2025 May.いたのですが、私が総裁を務めていたときは、理事会で研究計画にストップが掛かるということはありませんでした。私が財金研の所長を務めていたときも、様々な論文や報告書を、刊行する前に各局へ見せて、内容を確認してもらっていたのですが、各局から何かコメントがあっても、大きく内容を変えるようなことはありませんでした。当時から、行政機関の中の研究所という、難しい立場ではありましたが、あくまで公平に、外部の研究者も交えて調査・研究を行った結果である、と筋の通った主張を行えば、各局も納得してくれたように思います。日本銀行の方が、大蔵省・財務省よりも、もう少し制約があり、アカデミックな論文を学会に出すときにも、上司の許可を得ないといけない、と聞いたことがあります。私は課長補佐時代に、『財政・金融・為替の変動分析―相互波及のメカニズム』(1981年)という本を出す等、財政についても、金融についても、大蔵省に対して批判的なことも含めて、好き勝手に書いてきたのですが、大蔵省の中では、誰からも咎められませんでした。ただ、日本銀行に限らず、中央銀行はどこの国であれ、マーケットに悪影響が出ることを懸念して、職員の発信には慎重になっているのでしょう。それから、IMFも日本銀行と似ていて、スタッフが論文や本を出すときには、上司の許可が必要でした。榊原英資氏(元・財金研所長、財務官)がIMFでシニアエコノミストをされていたときに、上司である課長の許可を得ずに本を出したところ、その課長が怒って、榊原さんはその課をクビにされてしまったそうです。ただ、榊原さんは流石で、その課長よりもさらに上の局長に文句を言いに行ったら、その課長も喧嘩両成敗で、一緒にクビになってしまったそうです。(笑)――外部の研究者の知見を取り込むというお話がありましたが、黒田先輩は、財務官時代にも、経済学者の伊藤隆敏先生や河合正弘先生(元・財務総研所長)を副財務官に抜□される等、アカデミックな知見を取り込むということを積極的に実践されてきたかと思います。そうした発想は、どのように生まれてきたのでしょうか。私が財務官になったとき、米国の財務長官は、経済学者のローレンス・サマーズ氏だったので、そういった一流の経済学者と交渉するためには、こちらも一流の経済学者に加わっていただく必要があると考えたのは、自然なことでした。特に伊藤隆敏先生は、ハーバード大学でサマーズ長官と同級生だったので、適任だと思ったのです。ところが、省内では、外部の研究者を抜擢する人事に異論があり、中々スムーズには進みませんでした。それで、先程、仲が悪くなったと言った田波さんが当時の事務次官を務められていたので、田波さんに相談したところ、「良いんじゃない」と言ってくださって、人事が通りました。ですので、田波さんには、とても感謝しています。(笑)アカデミックな知見を取り込むということでは、私が三重県から戻ってきて、大臣官房参事官を務めていたときに、米国が「日本の輸出取引における売上税の還付は輸出補助金ではないか」というクレームを言ってきたことがあり、ちょうどその当時、植田和男氏(現・日本銀行総裁)が財金研の主任研究官として省内にいらしたので、ご相談に行ったことがあります。すると植田さんは、ものの1週間くらいで、7~8ページにも及ぶ反論のペーパーを英語で書き上げられ、その内容も、きちんとしたアカデミックな論文を引用した、経済理論に基づく洗練されたものになっていました。植田さんは、アカデミックな経済学者でありながら、そうした実務能力も大変高く、日本銀行の総裁としては、うってつけの方だと思います。私がこのように、積極的にアカデミックな知見を取り込むようになったのは、主税局の経験が長かったことが背景にあるように思います。主税局では伝統的に、外部の研究者も交えて、アカデミックな知見を踏まえた議論を行う文化がありました。そうした議論を通じて、私も研究者の先生方から多くのことを学ばせていただきましたし、研究者の先生方も、逆に職員から刺激を受けることも多かったのではないかと思います。それで、主税局の総務課長になったときに、若手の経済学者を課長補佐として採用して、若い職員と一緒になって議論してもらってはどうか、ということを提案したのですが、結局は頓挫してしまいました。伊藤先生や河合先生が副財務官を務められた後は、財務省全体として、あまり外部の研究者を採用すると

元のページ  ../index.html#98

このブックを見る