連載PRI Open Campus 2.所長時代の経験PRI Open Campus ~財務総研の研究・交流活動紹介~ 43ファイナンス 2025 May. 91方公共団体が何に使っても良い、各地方公共団体の選好をニュートラルに尊重する、というものなので、交付額を決める仕組みを大胆に簡素化して、「定額性」を確保すべき、ということを主張しています。この論文は、1984年から2年間、三重県総務部長として出向したときの経験に基づいています。実際に地方公共団体の立場から見てみると、定率ではなく定額の補助金もたくさんあって、これらをもらっても支出を増やそうとは思わないので、あまり効果がないと感じていました。また、地方交付税交付金も、数十の測定単位で交付額を決めるようになっており、その中には道路の延長等も含まれているため、道路を作るほど交付額が増える、といった具合に、まるで補助金のような性質を持っており、ニュートラルな制度にはなっていませんでした。こうした問題意識をもとに、この論文を執筆したところ、財金研の担当者が心配して、『フィナンシャル・レビュー』の刊行前に主計局へ相談したのかもしれませんが、当時の地方財政担当の主計官であった田波耕治氏(元・大蔵事務次官)から呼び出されて、「こんなモノを出したら、自治省と大喧嘩になっちゃうから、内容を変えた方が良いよ」とアドバイスされました。私は、貝塚啓明先生(元・財務総研名誉所長)の査読を経た後だったこともあり、「いえ、変えません」と言って、そのまま出してしまったので、しばらく田波さんとは仲が悪くなってしまいました。(笑)第4号(1987年3月号)に掲載された「経済政策協調の可能性について」は、三重県から戻ってきて、大臣官房参事官として、国際交渉の仕事をしていたときに執筆した論文です。当時は日本や西ドイツと米国との間で、貿易摩擦が深刻化しており、国際協調の重要性が増していた時代でしたが、どのようにすれば国際協調が可能になるのか、ということを、理論や歴史の面から考察した内容になっています。この論文を出した後に、国際金融局(現・財務省国際局)へ異動したのですが、引き続き国際協調についての分析を進め、『政策協調下の国際金融:「プラザ合意」以後の転換と為替変動』(1989年)という本を出版しています。いずれの論文も、当時の大蔵省の考え方と一致するような内容ではありませんでしたが、職員が個人の意見を発表することが認められるというのは、大蔵省の良い文化であったと思います。また、仕事の合間に論文を書いていたことが、意外なところで役に立つこともありました。財務省を退官後に、一橋大学の学長であった石弘光先生の勧めで、一橋大学の教授になったのですが、その際に、それまでの研究業績を提出するよう、大学から求められました。私は本の執筆や、様々な雑誌への寄稿はたくさん行ってきたのですが、大学からは「査読がある学術誌に収録されている論文」の提出を求められてしまい、とても困っていたときに、むかし『フィナンシャル・レビュー』に投稿していた論文を思い出して、大学に提出したら、OKになりました。そういう意味でも、財務総研には大きな恩があります。(笑)――その後、黒田先輩は1996年〜1997年に、財金研の所長を務められましたが、印象に残っているご経験等、所長時代のお話をお聞かせください。所長として、研究会やコンファレンス等、様々な活動をしましたが、最も印象に残っているのは、人脈を大きく広げられたことです。財金研では、創立当初から、スタッフが自ら行う研究に加えて、外部の研究者を招いた研究会を開催していました。これは、現在の財務総研まで続いている取組だと思いますが、こうした研究会等を通じて、それまでお付き合いのなかった研究者や実務家の方々と知り合うことができました。元々、舘先生や、貝塚先生、石先生、木下和夫先生、小宮隆太郎先生、浜田宏一先生といった経済学者・財政学者の方々とはご縁があったのですが、所長として開催した「アジアの持続的発展と安定に関する研究会」や「高齢化社会における雇用と社会保障に関する研究会」を通じて、原洋之介氏、國廣道彦氏、速水佑次郎氏、五百旗頭真氏、渡辺利夫氏、清家篤氏、高山憲之氏といった、それまであまり接点のなかった分野の方々とも親しくなることができました。こうした方々とは、研究会の場だけでなく、その後も様々な場面で議論をするような関係を構築することができ、今から振り返ってみても、私の人生にとって、大きな財産になったと感じています。
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