中町(唐人町)中町交差点牟田町大丸跡薩摩街道上町(本町)(広小路)市役所夫お都と路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 すけきっオーバルパティオ鹿児島旧寿屋広場C-PLAZA旧ナカムラ日州↓日向中央↓日向興業→宮崎147↓鹿児島↓都城信金合庁147跡カトリック教会裁判所駅前の攻勢に耐えた中町・上町飫肥街道街道筋明通小学校中央東部区画整理事業線の駅だっTERRASTA駐車場旧大丸図書館駐車場ウエルネス交流プラザ日州跡ファイナンス 2025 May. 81卍卍攝護寺(出所)筆者作成図1 市街図だった。明治40年(1907)8月、第百四十四国立銀行の後身の飫肥銀行と、宮崎町に本店を構えていた日向商業銀行と統合して(新)日州銀行となった。大正時代の都城に目を転じると、大正6年(1917)、日州銀行の都城支店が上町に新築移転。大正8年(1919)には地元本店の都城銀行(2代目)が開店した。大正10年(1921)においても都城が属する北諸県郡の期末預金シェアは第百四十七銀行がトップだった。昭和3年(1928)、日州銀行は都城銀行を含む県内7行と合併して日向中央銀行となった。ところが日向中央銀行も窮地に陥る。そこで、破たん処理の一環として昭和7年(1932)7月、宮崎県が資本金の8割弱を出資して日向興業銀行を設立。日本勧業銀行の長野支店長だった伊東祐中央銀行および宮崎銀行(現在の宮崎銀行とは異なる)の資産負債を引き継いだ。これまで2度の大合同に参加しなかった第百四十五国立銀行の後身、延岡銀行も3度目にして参加した。日向興業銀行は昭和37年(1962)に宮崎銀行に改称する。確認できる中で最も古い路線価は昭和31年(1956)である。当時の最高路線価は中町交差点を中心に中町と上町にまたがっていた。この年の10月、戦前から営業していた大浦呉服店を母体に「都城大丸」が中町に開店した。昭和35年(1960)11月には上町に地元資本のナカムラデパートが開店した。昭和30年代末には中町、上町の通りが拡幅され「中央通り」となり、片側アーケードも完成して中心街の地位を固めた。地点名が登場するのは昭和48年(1973)で、「上町山万呉服店前中央通り」だった。オイルショックが始まったこの年は都城の商業史的にも後々記憶に残る年となる。まずは駅前に商業拠点ができた。郊外大型店ができた年でもある。そして10月から翌年春にかけて、都城の大型店の店舗面積が約4.5倍になった。同年10月、宮崎市に本店を構える橘百貨店が都城駅前に進出した。8階建で上階に回転展望レストランがあった。11月、熊本を本拠とする寿屋が中町に9階建の百貨店を出した。11月末には製紙工場跡地にダイエーが出店。推定800台の駐車場を擁し、駅前立を頭取に迎えた。その後、日向地とはいえ郊外大型店のはしりでもあった。進出3店に地元勢も応酬し12月に都城大丸、翌年3月にナカムラデバートが増床した。その頃、昭和50年(1975)の完成に向け、都城駅前では土地区画整理事業が進んでいた。他の地方都市に比べて駅前の発展は遅いほうだ。都城駅の開業は大正2年(1913)10月。明治39年(1906)の鉄道国有化以降の駅である。当時、鹿児島本線は熊本県の八代駅から海沿いをたどる現在のルートではなく、八代駅から人吉を経由し鹿児島駅に至る内陸ルート、すなわち現在の肥薩線のルートをたどっていた。都城駅は、旧鹿児島本線の分岐線、吉松駅から枝分かれし、霧島山のカルデラに沿って都城に至る吉た。当時は「宮崎線」といい、宮崎駅を目指して延伸されていた。昭和7年(1932)に霧島山南麓をたど領主館跡
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