ライブラリー評者 76 ファイナンス 2025 May.政策研究大学院大学博士課程(政策プロフェッショナルプログラム)在籍関西大学出版部 2024年1月 定価 本体3,200円+税(1404)、大百科事典である『永楽大典』の編纂(1405~08)などだ。本書付録編第二章『祥刑要覧の撰者呉訥の履1435年左副都御史(同第2位)に昇任した。1439年、友人(67~73頁)を寄稿している。これは、宋代の労役の1つで本書は「中国の古典や先人の著作物から抜き出された、法律や裁判に関するコメントやエピソードが並んでいる書物」(はじめに)の訳注である。『祥刑要覧』(1442年ごろになったもの)の撰者、呉 訥(ご とつ、1372年-1457年)は、明代の官僚である。明王朝が朱元璋(洪武帝)によって建国されたのが1368年である。明朝永楽帝(1402~24)は日本でも知られるが、その業績は鄭和の南海遠征(1405~33、7回にわたる)、足利幕府との日明の勘合貿易の開始歴と逸話』に詳しく解説があるが、呉訥は永楽年間、医者として推薦されて南京に上京した。皇太子朱高熾が監国(皇帝代行)をつとめると、呉訥はその名を知られて、功臣の子弟に教授するよう命じられた。永楽帝に召し出されて応答が気に入られ、禁中で近侍して、諮問に備えたとされる。また、1425年(洪熙元年)、呉訥は「経明行修」として推薦され、監察御史(官吏の功過を調べ、地方を巡行して行政を監視する役目)に任じられた。54歳であった。御史として浙江・貴州・広西に出向して巡按した。1430年、南京都察院右僉都御史(監察機関の第3位の官)に進んだ。の処分に関与することが忍びなく自ら願って老齢のためと称して退官した。故郷(蘇州府常熱県)に帰り、1457年86歳で死去した。訳注を行った佐立治人氏は、関西大学法学部教授。東洋法制史を担当する。同大の助教授時代、2004年11月号の本誌に「四人目の盃―宋代の捕盗人『弓手』の活躍―」ある「弓手」(宋の「差役法」)についての明解な解説と当時の「怪談」をひもといて「弓手」の活躍ぶりを紹介するものであった。本書の意義について、佐立教授は、「・・・中には、現代の日本人の心に訴えるだけの力を失っていない文章もあると確信している。『祥刑要覧』は、江戸時代の日本で何度か刊行された。これは、当時の日本人がその内容に価値を認めていたからであろう」という。美濃岩村藩1834年刊が底本だ。本書の構成は、推薦の辞(西平等・関西大学法学部教授、中川清晴・関西大学環境都市工学部教授)、はじめに、序文編、本文編、附録編、感謝の辞、索引などとなっている。本書の訓読は、江戸時代に出版された際の訓点を付けた儒者若山拯に従っているが、訳注を付けた佐立教授が変えたところも多い。ここで、若山拯(1802~67)は、昌平校塾頭を務めた佐藤一斎に儒学を学び、その推挙で一斎の郷国である美濃岩村藩の藩主・松平乗喬に招かれたのち、1863年幕府に召されて昌平校の教官になった。漢方医学や兵法に通じてもいた。門下から勝海舟・板垣退助・土方久元らが出た。本文編は、第一章経典大訓、第二章先哲論叢、第三章善者為法、第四章悪者為戒、からなる。このうち評者がいくつか目を引いたものを紹介したい。『祥刑要覧』を節に分け、和訳、原文、訓読、訳注とする。専門家でないものにとっては、和訳や訓読が中心となるが、確かに心を打つものがある。第一章で、朱子の解釈として「民が不幸にならないように心を尽くして色々工夫をこらした上で、民の不幸に平気でいられない政治、即ち民の不幸をなくそうとする政治を行う」ことの一例として、「そもそも刑というものは、古の聖王がそれを頼って政治を行ったとまでは言えないけれども、刑を用いて教化を促進し、民が罪を犯すのを防いだ」とある。第二章で、蘇東坡の言葉として、「天網は目が粗いが漏らさない。法律を重くせよと主張することには慎重でなければならない」とある。張南軒の言葉「ある裁判官は理屈を振り回して自分は聡明であると思い、別の裁判官はその場しのぎで悪人に情けをかける。上は高官の意向を見て、判決を重くしたり、軽くしたりし、下は胥吏の偽りの言葉に惑わされて、判断を変える。事実を調べ尽くすことなく、もっぱら威力を用いて被告人を脅す。罪を犯した理由を究明することなく、いきなり法律を適用する。このような理由で、正しい判決が下されないことが多いのである。」はうならされた。第四章は、いわゆる酷吏(こくり)の所業の顛末を紹介しているが、司馬遷『史記』に出てくる、漢の武帝に重用されながら自殺に追い込まれた張湯の所業も2人目に紹介されている。呉訥撰・若山拯訓読 『祥刑要覧』の訳注―旧中国の裁判の教訓と逸話―佐立 治人 訳注渡部 晶
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