ファイナンス 2025年4月号 No.713
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9876543210年連載路線価でひもとく街の歴史(出所)「行田足袋組合沿革史」のデータから筆者作成(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成大正昭和明治図3 戦前における行田の足袋の生産高1,000万足10千万足1900111912'90ミシンの登場'86工場の登場'10 行田電灯'18忍町信組'96忍商業銀行1989/10~02/05忠実屋→ダイエー10/9~ベルク20304090080070060050040030020010018688090駅前再開発と大型店の進出JR吹上駅59~80区画整理事業66~JR行田駅国道125号線 行田バイパス市街図水城公園06/10~カインズ行田07/11~イオンモール羽生20/8~カインズ羽生図4 広域図る。大正10年(1921)4月、現在の行田市駅が開業。昭和41年(1966)、国鉄高崎線の行田駅が開業するまではこちらが行田駅だった。開業時は北武鉄道といい、東武伊勢崎線に連絡する羽生駅までの路線だった。翌年8月に熊谷駅まで延伸し、9月に秩父鉄道に吸収される。元々東武鉄道の支援で立ち上げられた路線だが、施工にあたって秩父鉄道の増資引受があったようだ。いたのは行田の中心地から4.5km程南の高崎線吹上駅だった。明治18年(1885)の開業で、行田の足袋はここから東京や東北に出荷された。行田の中心部から吹上駅まで馬車鉄道が敷かれた時期もあったが貨物輸送にはあまり使われなかったようだ。下町の東端、忍川の船着き場から本町、新町を通り、日光脇往還に沿って吹上駅に至る、当時のメインストリートを辿っていた。明治34年(1901)に開通したが、秩父鉄道の開通で衰退し、大正12年(1923)に廃止された。戦後、沼と低湿地の街は大きく変貌する。多くの沼に阻まれ難攻不落の忍城下だが、一方で赤痢等の水系伝染病が度々流行していたことが市政の課題だった。こうした事情から、昭和25年(1950)末以降に推進されたのが下水道事業である。本丸前の大きな沼は戦次に登場したのは輸送手段としての鉄道であそれまで行田の鉄道の玄関口の役割を担って「足袋蔵」の存在だ。街なかには現在、約80棟の足袋(1910)の行田電灯の登場である。明治中頃から使わ1,000万足となった。その後も増え続け、昭和13年(1938)に年間8,400万足のピークを迎える。大工業29年秋期TBS日曜劇場「陸仕入資金の借入が始まり、12月から翌年1月にかけて返済する資金繰りだった。有価証券や不動産を担保とした当座貸越が多かった。地元銀行に対する待望の背景には、加速度的に増える売上に伴う運転資金需要があった。なお、生産と出荷時期のズレは在庫期間でもある。こうした事情を反映しているのがいわゆる蔵が残っている。行田の産業革命史の次のエポックは明治43年れてきたミシンが電動になり、工場制大工業の時代の幕開けとなった。大正に入ると足袋の年間生産高がの時代に特徴的なのがノコギリ屋根の足袋工場だ。現存するものにイサミコーポレーションのスクール工場がある。大正6年(1917)に建てられたものだ。現在は学生服を製造しているが、元々はイサミ足袋本舗の工場だった。池井戸潤原作の同名小説を映像化した平成王」の「こはぜ屋」の外観はこの工場である。 68 ファイナンス 2025 Apr.

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