図2 市街図本丸跡十万石忍商業埼信埼玉中井跡さんろう(出所)筆者作成行田の産業革命史五郎ご路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 行田市駅(旧行田駅)ナショナルの田島貯金→武銀埼信跡忍町跡中井→昭和跡武銀跡ニチイ跡船着き場橋本喜助工場跡イサミ足袋本舗街道筋水路跡市役所卍卍卍卍行田の街の歴史は足袋の産業革命史と一体である。源流は江戸中期に始まった武家の内職で、幕末に近い天保年間(1830~1844)には絵図に27軒の足袋屋があり、産地として成立していたことがうかがえる。明治に入り、呉服商が内職を発注して産地問屋に転化したケースもあったようだが、行田産地の場合、足袋工房が販売も手掛ける製造卸に発展し、出荷量が増は、大えるに従って工程別に下請け発注するケースが主だった。問屋制家内工業でいう問屋の役を製造卸が担っていた。製造卸が産地問屋を通さず消費地問屋や呉服店に販売したので利益率が高かった。明治19年(1886)、足袋製造卸の荒物屋こと橋本喜助が、酒蔵を改装して足袋工場を立ち上げた(橋本喜助商店)。就業規則による管理の下、賃労働者を作業場に集めて分業システムを構築した点で工場制手工業のエポックといえる。同工場では明治23年(1890)頃にミシンが導入され、それから行田にミシンが広まっていく。以降生産高が加速度的に増え、明治18年(1885)に年間生産高50万足だったものが、工場やミシンの登場によって、忍商業銀行の開業前年までの10年で約4倍となっていた。橋本喜助は忍商業銀行の発起人の1人かつ最大出資者でもあった。足袋は晩秋に売上ピークがある季節商品である。通年で製造するので、例年3月頃から材料そして新町を北上し本町の丁字路(現在は十字路)で東に折れ、本町、下町を通って新忍川(見沼代用水)の船着き場に至る。日光脇往還に沿った新町、本町(上町)、下町に八幡町を合わせて行田四町と呼ばれた。本町丁字路には忍町最初の銀行、中井銀行の忍支店があった。明治16年(1883)の開店で、本店は東京の日本橋。千住、草加、越ケ谷、粕壁(春日部)、杉戸の日光街道沿いに支店を展開し、忍の他に川口、岩槻、浦和支店があった。昭和元年(1926)末時点の12の支店のうち8つが埼玉県東・中央部である。大正期に新町に移転。昭和の金融恐慌のあおりで破たんし、昭和3年(1928)、昭和銀行に引き継がれる。昭和銀行は、金融恐慌に伴い破たんした銀行の債権債務を引き継ぐために設立された受け皿銀行だった。昭和銀行も後に安田銀行に吸収されるが、忍支店はその前に閉店したようだ。いわば広域地銀ではない地元密着の銀行が待望される中、明治29年(1896)5月に設立されたのが忍商業銀行だ。発起人にして初代頭取の松岡三地主の家に生まれ、旧制浦和中学(現浦和高校)から慶應義塾、東京専門学校(現早大)、英吉利法律学校(現中央大)を出た30歳前後の青年だった。忍商業銀行は現在の埼玉りそな銀行の源流行の1つである。本町が創業地で、現在の埼玉りそな銀行の並びの東側だった。埼玉県の大手行に成長し、昭和18年(1943)、戦前の一県一行主義の一環で、川越の第八十五銀行、浦和の武州銀行、飯能銀行と合併して埼玉銀行となる。明治31年(1898)1月、忍商業銀行の系列行として忍貯金銀行が開店した。松岡三五郎が頭取を兼務し、開業当初は忍商業銀行内で営業していた。昭和9年(1934)6月に新築した鉄筋コンクリート造2階建の店舗は国の登録有形文化財である(図1)。忍貯金銀行は昭和19年(1944)に埼玉銀行に合流。行舎は足袋会館を経て昭和44年(1969)に武蔵野銀行の行田支店となり現在に至る。ファイナンス 2025 Apr. 67
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