ファイナンス 2025年4月号 No.713
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第62回 埼玉県行田市第62回 埼玉県行田市図1 旧忍貯金銀行(武蔵野銀行行田支店)町ご三季階櫓親丸墓山玉城連載路線価でひもとく街の歴史まるおしまちやすすえながちかはかやまさきたまがいやぐらすいじょうさん2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D275D510C240E295E(出所)令和7年3月7日に筆者撮撮影忍の浮き城本町で旗上げされた地元銀行街なみに残る足袋の産業革命史街なみに残る足袋の産業革命史という。明治22年(1889)にとなった。ある意味、埼玉の歴史は行田に始まる。三成は忍城の下手に、後世「石田堤」と呼ばれる堤防を築き、梅雨で増水した利根川、荒川を決壊させた。周辺一帯が水没し、水面から櫓が突き出た様子から「忍の浮き城」と呼ばれた。成田勢は徹底抗戦を貫き籠城戦を持ちこたえたが、同盟領袖の北条家が降服したため傘下の忍城も明け渡すこととなった。以降、徳川家の親藩・譜代が治める地となった。埼玉銘菓「十万石まんじゅう」は忍藩10万石にちなむ。製造元の十万石ふくさやは行田が発祥である。呉服商、旧山田清兵衛商店の店蔵だった土蔵造2階建を改装して本店とした。明治16年(1883)築の国登録有形文化財である。現在、本丸跡には市の郷土博物館と御がある。観光ガイドに登場する忍城のシンボルだが、昭和63年(1988)、「明治6年調整忍城図」を参考に再建されたものだ。場所も本丸ではなく外堀に面した城郭の南東端にあった。江戸時代の櫓なので石田神社があ三成が目にしたものではない。城下町時代から戦後にかけて、街の中心は本町界隈にあった。武蔵野銀行行田支店の交差点付近だが、昭和45年(1970)までは丁字路だった。藩政期には丁の横棒部分に高札場や本陣があった(図1)。埼玉県統計書によれば、明治18年(1885)、北埼玉郡行田町の宅地地価は川越町高澤町、熊谷宿本町一丁目に次ぐ3位だった(いずれも当時の場所名)。その行田町の中心の本町は明治以降の町名で、城下町時代は上町と呼ばれた。日光脇往還が行田の街を貫いていた。中山道の吹上宿から分かれ北上する日光脇往還は、現在の水公園の南辺に沿って城下町に入る。6月の梅雨時。豊臣秀吉が小田原城を包囲していると行田市は旧称を忍施行された町村制に伴い行田町、成田町、佐間村が合併して旧藩名から「忍町」が発足し、3町は忍町の大字になった。行田町は旧忍藩の商人町、成田町は武家地である。旧藩名の忍より行田が有名になり昭和24年(1949)の市制施行で市名にした。忍城といえば映画にもなった和田竜の小説『のぼうの城』(小学館)が有名だ。ときは天正18年(1590)き、成田家当主の氏長は、北条氏政・氏直親子とともに小田原城に詰めていた。代わりに忍城を守っていたのは叔父の泰だが急死してしまう。思わぬ事態にその嫡男の長、でくのぼうから通称「のぼう様」が石田三成の2万の軍勢と対峙するはめになった。石田勢は現在のさきたま古墳公園にある古墳の1つ、古墳に本陣を置く。古墳群の隣に前り、これが武蔵国埼玉郡、ひいては埼玉県の命名由来 66 ファイナンス 2025 Apr.路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街

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