ファイナンス 2025年4月号 No.713
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SPOT (紫式部が源氏物語を書いた屋敷があったという蘆山寺の節分の豆まき。)源氏物語とその世界(下)(昭和18年の文部省の教師用の初等科国語。紫式部を紹介し、最後のパラグラフに「源氏物語五十四帖今日では世界的に批評され称賛されている」とある。初等科国語 教師用 第7 - 国立国会図書館デジタルコレクション)典侍、榊命婦など。のち武家の老女や遊女の呼び名。…(2)バーのホステスなどの、職業上用いる呼び名」だという。「夕顔」、「蛍」なら今でもありそうだし、「葵」や「若紫」だと高貴な感じもするかもしれないが、「雲隠」とか「夢浮橋」という人が出てきたらきっとたまげる。「源氏物語」は、古くから学校教育でも取り上げられている。例えば、明治24年の文部省の「小学校教科用書 高等小学歴史」には、藤原氏の時代、「才媛輩出」の中で一条天皇の時代に多くの人材を輩出したが、女性の中で筆頭に出て来る紫式部は「石山寺ニ於テ、源氏物語五十四帖ヲ著ス。文辞精妙ナリ」と紹介されている。昭和18年(1943)の文部省の「初等科国語 教師用 第7」を見ると、若紫や紅葉賀の帖があり、「源氏物語の価値とその作者紫式部を紹介し、更にこの物語の極めて少部分を教材化して、すぐれた作品の一班を窺わしめようとするもの」で、「源氏物語五十四帖は、わが国の大小説であるばかりでなく、今日では世界的に批評され称賛されているのである。英國人ウェーリの翻譯以来、特に文芸批評家の注目する所となった。」という。現在の高等学校の国語の教科書でも、例えば、三省堂のものでは「桐壺」、「若紫」の帖が取り上げられていて、大学入試でも出題。今年の大学入試共通試験の「国語」の古文で2014年の大学入試センター試験以来11年ぶりに源氏物語(若菜下の帖)が出題されたという。名前も生没年も知られていない紫式部。「紫式部日記」は、中宮彰子の当時の後宮の様子を知る貴重な資料だし、「現代語訳 小右記」によると、中宮彰子や実資からも信頼されていたのか、長和二年(1013)頃、「道長と彰子の確執も表面化し、実資は彰子と頻繁に接触する。その間の取次役を担ったのが、かの紫式部であった。」という。藤原定家の選んだ百人一首には、友との慌ただしい再会を惜しむ「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に雲がくれにし 夜半(よは)の月かな」という紫式部の歌が残る。彼女が源氏物語の着想を得たという石山寺は、「枕草子」、「蜻蛉日記」、「更級日記」にも登場する「平安文学開花の舞台」であり、源氏物語を書いたという屋敷跡は京都御所の近く、蘆山寺。節分の時には赤鬼、青鬼、黄鬼などが登場して盛大に豆まき。大河ドラマの影響もあるのか昨年の節分はさほど広くない境内は人で埋め尽くされた。紫式部直筆の源氏物語は残っていないし、道長が「昼夜を忘れて」建立した法成寺は、40年後に焼失し。道長の時代に望月となった摂関政治もその子頼通が入内させた娘たちに皇子が生まれずに外戚関係が途切れて終焉。それでも戦国の世を生き延びた細川幽斎は「嘗て世の中に便となる書はいかなる書に候かと問ひしに、幽斎、そは源氏物語なりと答えらる。歌学のためには何ファイナンス 2025 Apr. 61(8)教育5 おわりに

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