SPOT(足利将軍家のお家騒動に擬した「偐紫田舎源氏」。左頁に「種彦作 国定画」とある。この38編で絶版処分に。偐紫田舎源氏 第37-38編 - 国立国会図書館デジタルコレクション)(開戦直前に出版された谷崎潤一郎の美しい装丁の「源氏物語愛蔵本」巻24、25は「源氏物語和歌講義上・下」源氏物語 卷二十四 愛蔵本 - 国立国会図書館デジタルコレクション)「義正長男義直に譲らせようと好色にふけるあたり義理、本は、巻23までの物語に加え、巻24、巻25は源氏物語和歌講義上・下として和歌の解説、巻26にある登場人物の系図だけで90頁程。本稿でも物語の各帖のタイトルに引く歌は谷崎の26巻の「源氏物語梗概概要」により、その訳は巻24、巻25の「源氏物語和歌講義上・下」によった。巻26のあとがきには「近頃預約出版法の取締りが厳しく、此の出版の完結を急ぐようにとの其の筋からの督促があった」と太平洋戦争開戦直前の当時の状況を物語る。谷崎の最初の訳は「時あたかも日華事変の最中で軍部の忌避に触れぬよう、この現代語訳では光源氏との藤壺との密通事件を歪曲、省略せざるを得なかったが、戦後、これを不満とし、訳文にも全面的に手を入れ『潤一郎新訳源氏物語』を刊行…さらに『新新訳』ではそれを新かなづかいに改定」したという。和歌。源氏物語には749首の和歌があり、建久4年(1193)に藤原良経主催の12名の作者による『六百番歌合』で判者藤原俊成が述べた判詞の中に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」という言葉に和歌の世界でのこの物語の影響がうかがえる。「和歌創作の際に古典作品に沈潜しながら、その世界を受容し新たな世界を形成」したという新古今和歌集や百人一首の選者、藤原定家。「その基盤となる重要な古典作品の一つに源氏物語がある」といい、例えば、定家の「かたみとぞたのみしことのかひもなく中の緒のたえやはてなん」の歌は、「明石の巻」で都への出立のために別れの場面で「『琴はまた掻き合わすまでの形見に』」と源氏の君が言い、「逢ふまでの形見に契る中の緒のそらべはこ部分だという。「草双紙」と呼ばれるジャンル。柳亭種彦作・歌川国定画「偐紫田舎源氏」は、足利義政の時代に「光源氏のなぞらえた足利光氏が山名宗全の陰謀を挫くという筋」に翻案。「父の自分への偏愛を憂え義兄の義直(朱雀院)の義理から義母藤の方(藤壺)と不義を見せかけ父に疎まれようとする」光氏(光源氏)は、家督を人情と読者の興をそそり、共感をもたせる」ストーリーで、「熱狂的に受け入れられたため、…天保改革の風俗矯正の一環として絶版処分を受けるが、…浮世絵に源氏絵と呼ばれるジャンルを生み出したことでも知られるように、大きな影響力を持っていた」という。現代語訳も多く、最近でも円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴、角田光代など女性の訳が多いが、歌人与謝野晶子も現代語訳。明治45年に晶子の「新訳源氏物語」の序に「源氏物語の訳をするのは現世において与謝野晶子女史をおいて他にない」と寄せたのは文豪森鴎外。その中巻を校了した与謝野晶子が欧州旅行に出発したと明治45年5月4日の読売新聞は報じる。「「紫式部は私の十一二歳からの恩師である」と語り、「十一人の子の第一子に光、末子を藤子とそれぞれ命名」した晶子は、この「新訳源氏物語」について「粗雑な解と訳文をした罪を二十数年恥じ…いつかは…完全なものに書き替えたいと願って」いたが、28年後に「新新訳源氏物語」を出す。谷崎潤一郎は、生涯に3回源氏物語を訳したという。昭和16年夏に完成した最初の訳全26巻の谷崎潤一郎 54 ファイナンス 2025 Apr.
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