SPOTしゃるのが気の毒で」道長「殿の御車に乗せ奉らせたまひて、御物語こまやかなるついでに『一年の事は、己れが申し行ふとぞ、世の中に言い侍りける。そこにも然ぞおぼしけむ。されど、さもなかりし事なり。宣旨ならぬ事、一言にても加へて侍らましかば、この御社に斯くて参りなましや。天道も見たまふらむ。いと恐ろしき事』」と伊周や隆家の流謫は自分の意向ではない旨、真剣に仰せられたという。また、道長の土御門殿にて御遊びがあるときに、『かようの事に、権中納言のなきこそ、猶さうざうしけれ』(こういう催しの折に、隆家卿が不在なのはやはりものたりないなあ)と「格別にお迎えの便りをさし上げ…、いみじうぞ持て囃しきこえさせ」(たいそう持て囃し歓待なさった)たと記す。藤原行成の「権記」にも長保五年(1003)五月に道長が宇治に遊覧した際に御供の中に、「権中納言(藤原隆家)」もいて「…天殿上人及び諸大夫で作文・和歌・管弦に堪能な者以外の者はいなかった」とある。浮舟がいなくなって大騒ぎとなるが見つからないまま、母は急いで葬儀をする。薫はあとから聞いて、どうして急いで簡略に葬儀をしたのか咎め、匂宮はショックで病となり貴族たちが見舞いに訪れる。浮舟を隠しているのではと思っていた薫も見舞いに行き、匂宮の様子をみてそうでないと思う。やがて四十九日が過ぎると二人は他の女たちのことに気が移っていく。たそがれどき、「いつも情けない結末におわった恋の一つを思い出しながら」薫は「故大姫君や中姫君は目の前にあるのが見えながら手に入れることが出来ずにしまひ、たまたま手に入ったと見えた浮舟君もまた行くへも知れず消えてしまつた。ほんたうに皆蜻蛉のやうに果敢ない人達ではある」(谷崎潤一郎訳)と独り言。浮舟の死に触れた穢れを避ける人々が出て来るが、徴として、穢れを忌避する観念が非常に強」く、「穢れに触れた者は、一定期間身…自宅に籠って外出を避け」なければならなかったが、「単なる迷信というわけでもなく、「穢れを忌避する観念は、平安京という空間と密接に関係している。…当時の日本‥-では最も人口の密集した空間で…疫病が入ってくれば、…、深刻な結果を生じることになるという面もあったようである」という。一条天皇の蔵人頭、藤原行成の日記「権記」を見ても、「穢」は度々出て来て、例えば、長徳4年(998)8月30日、一条天皇の母「東三条院に触穢がありました」、9月1日には一条天皇が「東三条院(藤原詮子)の穢は、連日、絶えない。聞くにつけ、怪しむことは少なくない」とおっしゃったと伝わる。また「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、折り合いの悪かった三条天皇が苦しんでいた「眼病平癒の最後の切り札と考えた」伊勢神宮への勅使派遣について、道長は「発遣の直前に関係者の周囲に『穢』を発生させ、発遣を延引させるという陰湿」な手段で妨害し、「結局、七回」延期されたという。そのころ、横川に尊い僧都が住んでいて、母尼と妹尼とともに初瀬参りに行く途中、宇治で中宿り。そのとき女が倒れているのを見つける。妹は自分の亡くなった娘の代わりに初瀬の観音が授けてくれた人だと喜ぶ。その女、浮舟は何も覚えていないが、僧都の祈祷で回復。妹尼の亡くなった娘の婿に言い寄られた浮舟は出家を望み、僧都は妹尼の留守中に剃髪。浮舟は日々勤行しながら「心に浮かぶことを筆に託して思いつくままに歌を作ったりする」手習いをして日々を過ごす。明石の中宮に女一の宮の祈祷を頼まれた僧都は祈祷で女一の宮を回復させるが、中宮に浮舟の事を話す。それを聞いていた薫の情人は薫に話すと、薫は僧都に確かめようとする。横川の尊い僧都というと、「往生要集を著した源信のことを、人々は『横川の僧都』といって尊崇していた」(瀬戸内寂聴)というから、実在の人物を想起させて物語にリアリティを与えたものだと寂聴はいう。なお、当時、書の三蹟の一人でもあった藤原行成の「権記」には寛弘二年(1005)九月一七日、道長に「道長に『往生要集』を返し奉った。新写した私の自筆を召された。そこで奉った。原本の『要集』を賜った。」とあり、道長が持っていた『往生要集』を行成が自ら書写するほど重視されていたこと、原本よりも行成の書を道長が欲したことが窺える。中宮とも話ができる僧都といえば、「天皇と摂政・関白」によると、「僧官のなかでも最高位に位置する僧「天皇と摂政・関白」によると、「平安時代の社会の特 52 ファイナンス 2025 Apr.(53) 蜻蛉「ありと見て手には取られず見ればまた行へも知らず消えしかげろふ」(54)手習
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