ファイナンス 2025年4月号 No.713
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SPOT(匂宮は明石の中宮の勧めもあり、気の進まないまま夕霧の六の君と結婚するが、その美しさに魅せられていく。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)帝といえど、子を思う親の気持ちは同じ。帝は後見のいない女二の宮を気にかけて、「ともかく御自分の御在位の間に、女二の宮の結婚のお相手を決めてしまおうとお考えになります。さて、そうなりますと、女三の宮と源氏の君の例をそのままに、薫の君よりほかに、婿君としてふさわしい人はいないのでした。」、薫は、「心の中で、これがまだしも明石の中宮腹のお方なら話は別なのだがなどと」(瀬戸内寂聴訳)と考える。帝の子でもその母が誰であるかは重要。「王朝の貴族」によれば、三条天皇の東宮時代の配偶者の一人は道長の二女妍子、もう一人は十六年前に亡くなった故大納言藤原済時の娘娍子。「道長を背景に持つ妍子と、…済時を父とする娍子とでは、その勢力は比較になら」ず、長和元年(1012)、「十八、九歳で子もなかった」妍子は中宮に立つ。妍子立后のすぐのち「六人の皇子王女があった」娍子の「立后の日は四月二十七日と定まったが、道長のほうでも、いったん東三条邸に下がっていた中宮妍子の参内の日取りを、同じく二十七日に決定…。…これは明らかに道長が故意にやった妨害…。同じ日に娍子の立后と妍子の参内がかち合えば、公卿以下はこぞって妍子の行事の方に集まってしまうことは、分かり切っているからである」という。当時、大納言だった実資の「小右記」にも「上達部は障りを申し、皇后の柵命に参らなかった。急に或いは穢に触れ、或いは病悩となった。」とあり、立后に参加したのは、病をおして参加し内弁を勤めた実資を含めて4人だけで、「現代語訳 小右記」によると、道長の娘「妍子は多くの公卿や殿上人を従えて、東三条第から内裏の飛香舎に参入した」という。なお、「『小右記』と王朝時代」によると、この「小右記」は、『政務に精通し、その博学と見識は道長にも一目置かれ…治安元年にもあつく信頼された」という藤原実資の日記で「21歳の貞元二年(977)から八四歳の長久元年(1040)までの六三年間に及ぶ記録で、…古代史の最重要史料」だといい、「かつて、多くの大学の日本史学(国史学)専攻の大学院では、古代史のゼミは『小右記』をテキストとした演習が行われていた」という。その4月27日の道長の日記「御堂関白記」には「指名しておいたのに参らなかった人は、右大将(藤原実資)〈「内裏に参っていた。三条天皇の召しによる」ということだ。〉・藤原隆家中納言〈今日、新皇后(藤原娍子)の皇后宮大夫に任じられた。〉・右衛門督(藤原懐平)〈長年、私と相親しんでいる人であるのに、今日は来なかった。不審に思ったことは少なくなかった。思うところがあるのであろうか〉。」としっかりチェックしていたといい、「藤原道長、『御堂関白記』を読む」によると、「元来が自己の主催する儀式への出席を非常に気にする道長であったが、欠席した人に対する考えを記すというのは、極めて異例のこと」というが、「さすが道長、翌四月二十八日には多数の公卿を中宮妍子の御在所に集めて、饗撰を設けた。…前日、娍子立后の儀に参入した四人の公卿のうち三人が馳せ参じている」という。しかし、薫は、結局、帝の次女と婚約。ライバル匂宮は源氏の息子、夕霧に望まれ、気乗りしないまま、「確かにこの右大臣に睨まれてしまったら、不都合なことになるだろう」(瀬戸内寂聴訳))と断り切れず、六の君と婚約し中の君の所にはなかなか来なくなる。中の君は薫に宇治へ帰りたいと訴えるが、薫はそれを断りつつ、中の君を口説くが、身重の中の君に拒まれる。匂宮は夕霧の六の君と六条の院で盛大に結婚。薫は中の君から亡き大君に似た異母妹がいることを聞き、薫の出生の秘密を知る出家した女房に会いたいと伝えてほしいと言って、「昔ここに泊まつたということがあると云ふ思ひ出がなかつたなら、此の山荘の木陰の宿に旅寝をするのも、どんなに寂しいことであらう」(谷崎潤一郎訳)と詠む。中の君は皇子を出産。薫は帝の女二の宮と結婚するが、宇治で大君の異母妹、浮舟を覗き見て心惹かれる。(1021)、右大臣に上り、「賢人右府」と称され…頼通 50 ファイナンス 2025 Apr.(50)  宿木「やどりきと思ひいでずば木の下の旅寝もいかに淋しからまし」

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