SPOT (匂宮の邸に迎えられ、宇治から京都に移る中の君は宇治に残る女房と別れを惜しむ。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)源氏物語とその世界(下)薫は「名香の糸…の総角結びの中に、あなたと私との行末長く変わらぬ契りをも結び込めて、糸が幾度も同じところに出逢ふやうに、私たちも始終逢ひたいものです」(谷崎潤一郎訳)と詠むが大君はつれない。女房達は姫君を薫と結び付けて京都に戻りたいと思っていて、薫を姫君の寝所に案内するが、大君は異変に気付いて、中の君を残して寝所をすり抜ける。中の君と匂宮を結び付ければ大君が自分のものになると思った薫は、匂宮の手引きをすると、匂宮は中の君に夢中になる。匂宮を東宮にもと考えている帝や明石の中宮は、匂宮の気ままな行動を許さず、宇治に通えない日々が続く中、匂宮と夕霧の六の君との結婚の噂を聞いた大君は、ショックで病となり、食事もとらずに衰弱して亡くなる。執心だった男が通ってこなくなった時の気持ちについて。「蜻蛉日記」は道長の父兼家が内裏への通り道にある家の前を、咳ばらいをして通っていくのを「聞かじと思へども、うちとけたる寝もねられず、夜長うして眠ることなければ、さらなりときくここちは、なにかは似たる。…ものしうのみおぼゆれば、日暮れはわびしうのみおぼゆ」と男に素通りされるやりきれない気持ちを記す。いずれ匂宮を東宮にと考えている明石の中宮は、「宇治の中の君のことをお耳になさって、『どうやら宇治の姫君たちは、男君たちにとって、並々の女と思えないほどの魅力がおありなのだろう』とお察しになられ、思い詰めている匂宮を不憫がられて、『…その姫君を引き取っておあげになって、時々でもおかよいになるようになされば」(瀬戸内寂聴訳)と匂宮に話す。春になり、父と姉に先立たれた中の君は心が晴れない。山の阿闍梨が父八の宮の生前のしきたりとおりに、蕨や土筆を届ける。中の君は「亡き父君の形見と思つて積んで下すつた山の蕨も、姉君までもなくなりなされた今年の春は、誰に見ていただいたらよいのでせうか」(谷崎潤一郎訳)と返事。大君を失った薫は、中の君を匂宮のものとしてしまったことを後悔する。ところで、宇治十帖の舞台、宇治といえば、今日世界文化遺産の構成資産である平等院は道長の時代にはまだないが、道長の山荘があった。道長から摂政の職を譲られた頼通は当時二六歳。「天皇と摂政・関白」によれば、「人事面では、…道長の存在は圧倒的で、叙位任官の希望者は頼通ではなくもっぱら道長のもとに馳せ参じ…寛仁元年八月に行われた京官除目では、道長はこれに関わらないことを示すため、宇治の山荘(後の平等院の地)に出かけたが、頼通は使者を宇治に派遣して様々な指示を仰いだ」という。道長の「御堂関白記」には「宇治の別業から帰った際、…(藤原)惟任が来向した。これは摂政の使いとして来たものであった。…除目についての問い合わせであった。」と記されていて「円融、花山、一条の三代の天皇の蔵人頭」だった藤原実資の『小右記』にも、このような状況は『かえって摂政のために鳥滸(愚か)なことになってしまう』と人々は言い合ったと記されるという。藤原行成の日記「権記」にも、行成が摂政頼通に中納言に任ずるべき人を問うと「大殿には別にご意向が有るようである。まったく理非を申してはならないのである。自ら思うところは、このようなものである。」と摂政でも父道長には何も言えないと語ったと伝わる。なお、「藤原道長『御堂関白記』を読む」によると、藤原行成は「一条天皇の後宮に入内…させた長女の彰子を中宮に立てようとしていた」道長が「一条生母の東三条院詮子に一条を説得させるよう」依頼した道長の側近。その日記「権記」は、「王権をめぐる宮廷人の政治的思惑・秘事が読み取れる。藤原道長の傍らに生き、同日に薨じた権大納言の膨大な記録は、平安の社会史・生活史・宗教史にもからむ重要な史料」だという。ファイナンス 2025 Apr. 49(48) 総角「総角にながき契りをむすびこめおなじ所によりもあわなん」(49) 早蕨「此の春は誰にか見せんなき人のかたみにつめる峰のさわらび」
元のページ ../index.html#53