SPOT (玉鬘の娘、大君と中の君が庭の桜の木を巡って碁で三番勝負する。藤原隆能 著 ほか『源氏物語絵巻』,徳川美術館,昭11. 源氏物語絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)源氏物語とその世界(下)道長『御堂関白記』を読む」によると、「摂関家最高の重宝とされ、…現役の摂関でさえも容易に見ることが出来ない」ほど厳重に保存され、今も「万一の際には、これだけ手で持って運び出すため」近衛家の「陽明文庫の蔵の…『記録第一函』という一個の箱の中にまとめて納められ、扉を入った左側の一番手前の机の上に置かれてい」るといい、2013年にユネスコの『世界記憶遺産』に登録されている。一条天皇の蔵人頭で、当時、中納言だった藤原行成の日記「権記」には、「東宮…は事情を后宮(娍子)に申されました。后宮は、先に伝えられずに、たやすく外部にもらしてしまったということについて、□がありました。その時、儲宮は口を閉ざし、色を失いました。頗る悔いる様子が有りました」と記す。一方、東宮に娘延子を入内させていた左大臣源顕光邸では、夫を奪われた妃延子は「病臥しておられた。大臣も今にも絶え入りそうな有様で横になっておられると、一宮がお出でになって、『おじいちゃま、もしもし、お起きなされ。馬になってちょうだい』と言ってお起こし申し上げなさると」、左大臣が「正体もない様子で起き上がりなさり、尻を高くして這い、馬の恰好をして一の宮をお乗せ申し上げなさって、這い歩き回られると、一の宮は『普通よりもよく動かないこの馬はつまらない』と言って、扇でしとしとと御打ち上げ申しなさ」ったと左大臣一家の悲しみを『栄華物語」は記す。娘を入内させることが身を滅ぼすこともあり、「王朝の貴族」によると、左大臣源高明が16歳の東宮候補に娘を入内させると、969年(安和二)年、「藤原氏北家嫡流の面々」は、9歳の同母弟を東宮として、左大臣源高明を失脚させ、以後、「藤原氏の他氏排斥の運動は終わりを告げ…もはや藤原氏を脅かすにたる存在は生まれ出る機会を与えられ」なくなったという。玉鬘の夫、髭黒の太政大臣は「あっけなく亡くなって」しまい、時勢におもねる人々は寄り付かなくなり、「お邸のうちもひっそりと寂しくしている」(瀬戸内寂聴訳)。当時、度々疫病が猛威を振るい、多くの貴族も命を落とす。「王朝の貴族」によると、「九九三(正暦四)の秋に疱瘡が多少の流行…、翌年の春から九州に新たに流行し始め、…特に夏には京都に病者・死者があふれ、五位以上だけで七十人以上が死亡…翌九九五年(長徳元年)の春から、またまた流行し始め…この年はことに四位・五位や公卿などの死亡が目立ち、中納言以上八人が軒並み死んで道長が躍進した」という。「大鏡」も、「大臣・公卿七八人、二三月のなかに掻き払ひたまふ事、希有なりしわざなり」、「お亡くなり遊ばした殿さまたちが…長生きなさったとしたならば、とてもこんな風にまで道長公が御出世遊ばしたかどうか」と記す。玉鬘は髭黒の太政大臣が入内を望んでいた二人の娘たちをどこに御縁づけるかに悩む。貴公子に人気の上の娘(大君)には、冷泉院と帝から入内をうながされる。大君には夕霧の息子蔵人の少将が玉鬘邸に通い詰め、堅物と言われる薫も心惹かれる。玉鬘邸での宴の翌日、薫は「催馬楽の竹河の一端を謡ってほのめかしたその中に、私の深い心の底を汲み取ってくださつたでせうか」(谷崎潤一郎訳)と歌を贈り、大君へ思いを伝える。あれこれ悩んだ玉鬘は、結局、「後見もない宮仕えは、宮中ではとても不都合」だと大君を冷泉院に入内させる。左大臣が亡くなり、夕霧が左大臣、薫は中納言に昇進するなど源氏の子孫が栄える中、玉鬘は、髭黒の太政大臣を失った息子たちの「昇進が人より遅れている」(瀬戸内寂聴訳)と嘆く。権力者の子も後ろ盾を失うと運命は変わる。道長と権力を争った甥の伊周が失脚。「大鏡」によると、その息子、藤原道雅は25歳で従三位に昇進した後、62歳で亡くなるまで、「非参議、従三位のまま、少しも昇進しないで世を終えている」という。ファイナンス 2025 Apr. 47(45) 竹河「竹河のはし打ち出し一ふしに 深きこころの底は知りきや」
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