松江だんだん道路バイパス道と浄化事業で□った水の都図5 広域図要するに、松江の場合、駅前に街の中心が移る決め手となった都市改造は、同時に郊外化の端緒にもなった。くにびき道路の整備に伴う区画整理事業で北東郊外に新たな街が造成され、平成以降、「学園通り」に沿ってロードサイド商業拠点が発展した。郊外大型店のはしりは、ピノと同じ昭和56年に開店した。協同組合松江ショッピングプラザの「アピア」である。昭和57年(1982)、一畑百貨店は駅前に対抗して本店向かいに新館を増築。ツインタウンと称した。12年後の平成6年(1994)、JR松江駅の南東、松江片倉製糸の跡地に「松江サティ」(現・イオン松江SC)がオープンした。当時のスーパー大手のニチイ系列、マイカルグループのGMSだ。駅前で競合したやよいデパート、次いでピノ・ジャスコが撤退。平成10年(1998)4月、空ビルに一畑百貨店が移転した。一方で移転元の殿町、末続本町の衰退が進む。もっとも、一畑百貨店の売上は平成13年度をピークに減少に転じる。百貨店業態の商圏と見込まれる中海・宍道湖圏を俯瞰すると、2000年前後から出雲、米子エリアに巨艦モールが出店している。まずは平成11年(1999)、米子エリアに圏域最大の店舗面積47,000m2を擁するイオンモール日吉津。出雲エリアには平成20年(2008)、平成28年(2016)に30,000m2クラスのゆめタウン出雲、イオンモール出雲が出店した。ネット通販の普及にコロナ禍が追い打ちをかける形で令和6年1月14日、一畑百貨店が閉店した。島根県は山形、徳島に続き百貨店がない県となった。街なかを縦横に巡る堀川の景観も松江が「水の都」と呼ばれる所以である。京橋川、松江城の外堀を約50分かけて一周する松江堀川遊覧船「ぐるっと松江堀川めぐり」は平成9年(1997)7月に始まった。約15分間隔の運航で、特に予約なしで乗ることができる。新潟をはじめ、かつて縦横に堀川を巡らされた街は多い。もっとも都市化に伴う車道の拡幅のため、生活排水の流入による水質汚濁のために埋め立てられる例が多かった。松江市でも京橋川の埋立が度々提起され、昭和38年(1963)に決定された経緯もある。にもかかわらず、水の都の景観が残っている理由の1つが、埋立が提起される度に保存すべきという議論があったことだ。そして、昭和47年(1972)に宍道湖湖水の堀川への導水、底泥の浚渫、下水道整備を3本柱とする浄化事業が始まる。昭和55年(1980)には青年会議所による「よみがえる堀川の会」が発足した。浄化事業に前後して旧市街を迂回する道路の整備も始まる。市街の西縁に宍道湖大橋、東縁には前述のくにびき大橋が完成。橋に通じるバイパス道の整備が進むにつれ、京橋川を埋めて広幅道路を通す必要性も低くなった。平成に入ると市街地のさらに外縁を迂回する道路の整備が進む。1つが東西軸の山陰自動車道、もう1つが南北軸の松江だんだん道路である。一畑百貨店が駅前に移転し、旧城下町から買い物客の賑わいはなくなったが、それがかえって閑静な水の都としての魅力を高めている。商業都心としては弱みだった城下町の区画が残る狭い道も、住まう街として、まち歩きを楽しむ観光都市としては強みとなった。(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 米子□□一畑薬師市街図‘94/5~イオン松江□□□□□□㎡山陰自動車道’□□□□□イオンモール日吉津店舗面積□□□□□□㎡ファイナンス 2025 Mar. 67‘16/5~イオンモール出雲□□□□□□㎡‘08/6~ゆめタウン出雲□□□□□□㎡
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