ファイナンス 2025年3月号 No.712
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町川ひ川ひ平治うじ連載路線価でひもとく街の歴史かわかわへいまちとの駅前の隆盛から百貨店の閉店まで 66 ファイナンス 2025 Mar.明治36年(1903)に白潟本町に移転した。昭和28年(1953)に本店を新築。平成9年(1997)、1筋奥の現在地に14階建の新本店を新築した後、旧本店は朽化で解体され、現在は駐車場になっている。雲陽実業銀行は明治30年(1897)に簸で創業した簸銀行が発祥で、出雲地区に地盤を築いていた。県都松江に本店を移し雲陽銀行と改称、米子に本店を構えていた山陰実業銀行と合併して雲陽実業銀行となった。京橋川の河岸にある「ごうぎんカラコロ美術館」が本店だった。元々ここには明治45年る建物は八束銀行に改称後の大正15年(1926)に新築したものだ。後に雲陽実業銀行の本店になった。山陰合同銀行に合流してから北支店となる。同じ並びには日本銀行の松江支店が大正7年(1918)に開設されている。長野宇平成12年(2000)に改装されて「カラコロ工房」となった。内部は工房を兼ねたアンテナショップで、地元発の工芸雑貨品が並んでいる(図4)。戦後も両町が松江の中心だったが、昭和32年年(1960)初出の地点名は、「末次本町やぐもや菓子店前末次本町通」だった。わずかな差だが、白潟本町から末次本町へ最高地価地点が移っている。背景の1つに一畑電気鉄道(一畑電鉄)の開業があったと思われる。一畑電鉄は出雲今市駅(現・出雲市駅)から一畑薬師最寄りの一畑駅まで大正4年(1915)に開通「白潟ギャラリー」として活用されていた。その後老(1912)開業の八束貯蓄銀行の本店があった。現存す(1938)築の2代目行舎は支店の移転後も解体されず、(1957)の路線価図をみると、末次本町の路線価が坪5万円で白潟本町を1,000円上回っていた。昭和35した。昭和3年(1928)に一畑駅の1つ手前の小境灘駅(現・一畑口駅)から“人”の字型に分岐して北松江駅(現・松江しんじ湖温泉駅)まで延伸した。松江初の百貨店は末次本町の北側、京橋の通りの殿にあった。昭和33年(1958)10月に開店した5階郡今市町建の一畑百貨店である。昭和59年(1984)に分社化するまでは一畑電鉄(百貨店部)の直営だった。創業に三越の支援を得ている。当時三越常務だった松田伊三雄(後の社長)が終戦時の京城支店長で、京城支店の納入業者の会の会長が松江出身者だった。一畑電鉄の山本孝吉社長が当の会長を介して松田常務との縁を得た。松田常務が復員社員の再就職先を探していた経緯もあって話が進み、三越から初代店長と7~8人の課長級人材が創業メンバーとして入社した。店員の集合研修は三越大阪支店が受け入れた。昭和46年(1971)には株式持ち合いを含む広範な提携に発展。その後も三越の関係百貨店として歩んできた。昭和57年(1982)、最高路線価地点が「松江市朝日町明治生命館前駅前通り」となった。第37回国民体育大会、通称「くにびき国体」が開催された年である。松江に鉄道が開通したのは明治41年(1908)11月だ。山陰本線が起点の京都駅につながったのは明治45年(1912)で、下関まで全通したのは昭和8年(1933)だった。昭和4年(1929)、駅の東南に松江片倉製糸が開業してから少しずつ人通りが増えてきた。駅前地区に初めてできた大型店は、昭和48年(1973)4月の協同組合やよいデパートだった。一畑百貨店を上回る大型店の登場で人の流れが駅前に移っていく。昭和50年(1975)4月には地元スーパーとの合弁で立ち上がった山陰ジャスコの松江店が開店した。そして、昭和56年(1981)、駅前再開発事業に伴って6階建の再開発ビル「ピノ」が完成。6月、ジャスコを核テナントに協同組合松江駅前ショッピングデパートが入居した。駅前再開発は国体開催に向けた都市改造の一環で、同じ年に大橋川を渡る4本目の橋、「くにびき大橋」が、国体が開催された昭和57年には高架化された松江駅をくぐり、市街地の東縁を南北に貫く「くにびき道路」が暫定的に開通している。が設計した昭和13年図4 旧日銀支店と京橋川と遊覧船乗り場

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