ファイナンス 2025年3月号 No.712
68/98

第61回 島根県松江市第61回 島根県松江市しんじこ道湖海北南昧郷ふや軒屋町にじこ海道湖潟本町次本町町や□連載路線価でひもとく街の歴史まいなかうみきょうほくきょうなんはるさとなかうみしんしらかたほんまちりょうはっけんちょうすえつぐほんまちちょう山陰の中心としての松江白潟本町と末次本町と大橋バイパス道と浄化事業で再生した水の都バイパス道と浄化事業で再生した水の都 64 ファイナンス 2025 Mar.図1 山陰の重ね地図となっていた。明治44で70等級後半が白潟本町と対岸の末いた。大橋両詰の2つの本町は、松江の中心街の通称として両大橋の賑わいは小泉八雲が書いた『知られぬ日本の面影』からもうかがえる。「手を拍つ音が歇始まり出す。からからと下駄の音が、漸次高く響いてくる。大橋の上で下駄の鳴る音は、とつながり、鳥取県の境、南側は橋は茶道不昧流を起こし・宍を細くしたような形だとわかる。人口は約122万人で、この約半分の60万人が中海・宍道湖圏に住む。集中度は新潟県における新潟市のそれを上回る。中海・宍道湖圏は東西70kmで、東京都より一回り小さい。その中で、松江は政治と金融、米子は経済と交通の中心と呼ばで、群馬県における前橋と高崎の関係のように思われる。島根県統計書によれば、明治14年(1881)から同25年(1892)まで、宅地の最高地価は八圏」あった。町名は他国問屋兼宿屋が八軒あったことにちなむ。中海・宍道湖の湖上水運の拠点だった松江において、湊があった八軒屋町が城下町の玄関口だった。明治には汽船の発着場となり、昭和に入ると浚渫され、海から隠岐航路の船が入港できるようになった。明治35年(1902)の最高地価地点は八軒屋町に隣接する、街道沿いの白年(1911)の「松江市宅地等級概況図」によれば、白潟本町のうち大橋南詰が80等級で最も高く、次いに分布してとも呼ばれた。んで、一日の仕事が松江は宍畔の城下町で「水の都」と呼ばれる。宍道湖は大橋川を抜けて中港から日本海に通じる。城下町は大橋川をまたぎ、松江大橋(大橋)を境に北側が橋れる。橋北の松江城は江戸時代以前に建てられた天守が現存する12城の1つだ。版籍奉還時の城主は松平氏で、7代当主の不こと治た茶人として知られる。伝統的に、湖上水運を介した経済・生活圏の一体性が認識されてきた。呼び方の1つが「中だ。松江市、出雲市、安来市、鳥取県米子市、境港市そして日吉津村の6市村から成り、山陰2県の中枢を担っている。例えば山陰2県をサービス提供エリアとする業種に銀行と放送がある。山陰合同銀行の本店は松江市、3つあるテレビ局も山陰2県を視聴範囲としており、うち2局が松江市、米子市に本社がある。山陰地方を180度回転した重ね地図(図1)を見ると、東西の長さは東京-名古屋間とほぼ同じで新潟県山陰:約□□□万人うち中海・宍道湖□市村:約□□万人新潟県:約□□□万人うち新潟市:約□□万人2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D275D510C240E295E路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街

元のページ  ../index.html#68

このブックを見る