ファイナンス 2025年3月号 No.712
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SPOT 36 ファイナンス 2025 Mar.近年、従来の見解を逆転させる連邦最高裁判決が相次いでいる。例えば、ドブス対ジャクソン女性健康機構事件(ロー対ウエイド判決の撤回、2022)、公平な入学選考を求める学生たち対ハーバード事件(アファーマティブアクションに違憲判決、2023)、シェブロン法理の撤回(連邦法上、曖昧な問題を連邦政府が解釈し、その解釈が合理的であれば司法は従う法理を撤回、2024)、大統領免責特権の一部承認(2024)などである。これらは概ね保守派判事が多数意見を取り、リベラルな判事が反対意見を出している。政治が司法を侵食しているというのは、ジャーナリスティックな話題に止まらず、司法関係者の間でも現に持たれている懸念である。ジェファーソン・パウエル(Jefferson Powell、デューク大学)は、憲法学の議論は政治的なものであり、また政治的なものでしかありえないという認識は誤りであるという(Powell, 2022)。パウエルは、政治的意見の相違を超えた、憲法上の主張を構築し評価するための長年にわたる共通のプラクティスが存在すると指摘する。弁護士や裁判官が、最も説得力のある答えが何であるか(サブスタンス)において意見の相違があっても、何が問題なのか、従って、尤もらしい答えは何に対処しなければならないのか(プラクティス)について合意することができるという。憲法学とは、単に他の手段で政治を行うことではなく、最高法規としての憲法を実質化することに成功したプラクティスであるとする。パウエルによると、憲法のプラクティスの究極の正当性は、アメリカの政治コミュニティが解決の必要な課題に取り組む上で、当該プラクティスが機能してきたという証拠に基づく。すべてのコミュニティは、構成員間の紛争を解決するためのメカニズムを開発しなければ、持続することができない。気を付けたいことは、課題解決能力という以上、パウエルの考えが、社会のニーズとの接点を持ち続けていることである。そして、社会のニーズを通じて、サブスタンスに関する考えは、司法判断を一定程度方向づける力を持ちつづける。それでも、社会のニーズは一意に定まったものではない。そのニーズと接点を持っているという限度内で、様々なサブスタンスがプラクティスを共有しつつ、競合しあう状態が生まれる。パウエルの考えは、ドウォーキンの「連作小説」のアイデアを下敷きとしている。連作小説では、作家は先行作への彼(女)なりの最良の解釈に基づいて続きを書き足していく。ドウォーキンは、この創作活動と裁判官による法解釈との間に類似性があると指摘した。制定法の解釈は、どのような解釈が当の制定法を含む立法史をより善い光のもとで示すことになるかを顧慮しながら行われる。裁判官は先例法理や立法府の至上性などの制度的拘束に服しながら、正義についての自らの信念を裁判のなかで実現していく。裁判官は、法をそのベストのあり方へと引き上げることを目指して法を解釈する。ドウォーキンは、過去への責務と法解釈の創造的な面を、法のインテグリティ(ベストへと近づく法のあり方)というポイントでピン止めする。パウエルは、分断によって、このプラクティスが壊れてしまうことを懸念している。現在、連邦最高裁の少なからぬ判事が、憲法におけるすべての記述は「採択された時点」の原初的な理解に基づいて解釈されなければならないと主張する憲法解釈の理論の支持者(オリジナリスト)となっている。ところが、採択された時点だけをみるという判事は、未来をみる時に、自分の個人的好み、道徳観、政策上の選好を用いるだけに終わってしまう。採択された時点の人々の見解を知ることができるとしても、なぜ彼らの見解だけを用いなければならないのかも判然としない。採択時点以降の人々は、憲法を持続するのに貢献してきた人たち(sustainer)であり、彼らの見解に耳を傾けていけないのはなぜなのか。現在、中絶の権利など憲法に書いてないことを解釈で編み出してきたプラクティスを転倒させたいと考えている保守派が、司法の主要部分を掌握している。もっとも、司法の場でプラクティスが事実上破壊されたことは過去にもあった。フランクリン・ルーズベルト大統領による"court-packing plan" (1937、大統領による最大6名までの判事追加を認める法案)の提案を機に、最高裁はニューディール法制の容認へと転じた。公立学校における人種分離を違憲としたブラウン判決(1954)は、"the doll test"と呼ばれる実験を通じた、分離校の黒人児童の自尊の念が損なわれているという心理学者の証言を援用してまでして、"separate but equal”という先行法理を覆している。それでも、事実上のプラクティスの破壊があっても、破壊などないかのように振舞い、小説を書き継ぐことには依然として意味がある。ニューディール法制の容認は、"court-packing plan”というより悪質な司法部門の破壊を回避することの代償措置であった。ブラウン判決が判事の全員一致の判決だったことの意義は大きかった。司法が他の手段で行う政治だと国民から見なされたら、司法に期待される問題解決機能は失われる。そして、一段と重要なことは、ニューディール法制の容認もブラウン判決も、時代の社会ニーズに適合し、司法の課題解決能力を回復させる方向への転換コラム3.5:司法と政治

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