図5 旧市役所(市立山陰歴史館)と米子城址(天守閣筆者加筆)図4 加茂川と土蔵 プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦のニチイ)のサティが入居した。相次ぐ大型店の出店で、平成3年(1991)には米子市の吸引力が山陰トップになっている。その後、米子サティは同じマイカルグループのホープタウンと棲み分けを図り、平成8年(1996)に「米子ビブレ」に業態転換。後に再びサティに戻したが、親会社がイオングループとなったことから現在はイオン米子駅前店となっている。平成7年(1995)、最高路線価地点が「明治町日本交通米子営業所」と再び駅前になった。郊外大型店に対する角盤町の退潮は否めなかった。その後、商業拠点はさらに遠心する。平成4年(1992)に米子自動車道が米子ICまで、その翌年には国道431号線が開通する。そして平成11年(1999)3月、日吉津村に「イオンモール日吉津」(当時はジャスコ日吉津)がオープンした。米子ICから続く、国道431号に面した場所にある。売場面積は36,589m2で、開店当時は山陰最大とうたわれていた。旧街道沿いのアーケード商店街はシャッターを閉じたままの店が目立つようになり、角盤町の大型店も影響を受けた。平成28年(2016)1月、やよいデパートが閉店する。そして高島屋も撤退することとなった。令和2年3月、米子高島屋の持分は地元でTSUTAYAやコナミスポーツクラブ等を運営するジョイアーバンに譲渡された。当社は、米子市が平成29年(2017)に譲り受けた高島屋旧東舘の改装・運営を受託した実績があった。屋号は「JU米子高島屋」(JU=JOY URBAN)となった。資本関係は無くなったが、高島屋は引き続き商標使用を認め、商品供給等の支援を継続している。チラシも髙島屋時代のままだ。米子の街の歴史を俯瞰すると、法勝寺町を旧街道由来の街として、角盤町から外浜産業道路、さらに国道431号線に商業拠点が遠心していることがわかる。他方、旧街道に沿った旧市街も、商業に代わる「歩く街」として再生の兆しがうかがえる。「米子の町屋・町並み保存再生プロジェクト」が平成26年(2014)までに調査したところ、米子の城下町周辺にある2,754軒の家屋のうち、約4分の1の718軒が町家であることがわかった。商店街に特有の、正面をファザードで覆った「看板建築」もまだ多く、本格的な修景がこれからであることを考えれば、将来にわたる大きなポテンシャルを秘めている。図1で示したように、米子湊から加茂川を遡上すると左手に京橋、右手に後藤家住宅が収まるアングルになる。建物や電柱に遮られうまく撮れないが、頂に白雪を抱いた大山が背景となる。運河の設計者はこの景観を米子の第一印象とするため、あえて流路にカーブを付けたのではあるまいか。図5は米子城址を背景とした旧市役所の写真である。四層五重の天守閣が復元されればさぞ「インスタ映え」することだろう。法勝寺町を中心とするL字経路の商店街のアーケードは撤去され、歩いて楽しい遊歩道に生まれ変わった。境港往還に由来する商店街の先は加茂川と町家のエリアとなり、15分ほど歩くと米子湊に抜ける。地元で愛される百貨店の賑わいもありながら、コンパクトで静かな街へ変わりつつある。仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。主著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)遠心する商業拠点と求心する街の兆しファイナンス 2025 Feb. 59を目途に再開発ビルを建て、マイカルグループ(元のニチイ)のサティが入居した。相次ぐ大型店の出店で、平成□年(□□□□)には米子市の吸引力が山陰トップになっている。その後、米子サティは同じマイカルグループのホープタウンと棲み分けを図り、平成□年(□□□□)に「米子ビブレ」に業態転換。後に再びサティに戻したが、親会社がイオングループとなったことから現在はイオン米子駅前店となっている。□平成□年(□□□□)、最高路線価地点が「明治町日本交通米子営業所」と再び駅前になった。郊外大型店に対する角盤町の退潮は否めなかった。□□遠心する商業拠点と求心する街の兆し□□その後、商業拠点はさらに遠心する。平成□年(□□□□)に米子自動車道が米子□□まで、その翌年には国道□□□号線が開通する。そして平成□□年(□□□□)□月、日吉津村に「イオンモール日吉津」(当時はジャスコ日吉津)がオープンした。米子□□から続く、国道□□□号に面した場所にある。売場面積は□□□□□□㎡で、開店当時は山陰最大とうたわれていた。□旧街道沿いのアーケード商店街はシャッターを閉じたままの店が目立つようになり、角盤町の大型店も影響を受けた。平成□□年(□□□□)□月、やよいデパートが閉店する。そして高島屋も撤退することとなった。令和□年□月、米子高島屋の持分は地元で□□□□□□□やコナミスポーツクラブ等を運営するジョイアーバンに譲渡された。当社は、米子市が平成□□年(□□□□)に譲り受けた高島屋旧東舘の改装・運営を受託した実績があった。屋号は「□□米子高島屋」(□□=□□□□□□□□□)となった。資本関係は無くなったが、高島屋は引き続き商標使用を認め、商品供給等の支援を継続している。チラシも髙島屋時代のままだ。□米子の街の歴史を俯瞰すると、法勝寺町を旧街道由来の街として、角盤町から外浜産業道路、さらに国道□□□号線に商業拠点が遠心していることがわかる。他方、旧街道に沿った旧市街も、商業に代わる「歩く街」として再生の兆しがうかがえる。「米子の町屋・町並み保存再生プロジェクト」が平成□□年(□□□□)までに調屋のうち、約□分の□の□□□軒が町家であることがわかった。商店街に特有の、正面をファザードで覆った「看板建築」もまだ多く、本格的な修景がこれからであることを考えれば、将来にわたる大きなポテンシャルを秘めている。□図□で示したように、米子湊から加茂川を遡上すると左手に京橋、右手に後藤家住宅が収まるアングルになる。建物や電柱に遮られうまく撮れないが、頂に白雪を抱いた大山が背景となる。運河の設計者はこの景観を米子の第一印象とするため、あえて流路にカーブを付けたのではあるまいか。図□は米子城址を背景とした旧市役所の写真である。四層五重の天守閣が復元されればさぞ「インスタ映え」することだろう。□法勝寺町を中心とする□字経路の商店街のアーケードは撤去され、歩いて楽しい遊歩道に生まれ変わった。境港往還に由来する商店街の先は加茂川と町家のエリアとなり、□□分ほど歩くと米子湊に抜ける。地元で愛される百貨店の賑わいもありながら、コンパクトで静かな街へ変わりつつある。□□図□□加茂川と土蔵□((出出所所))図図□□・・□□とともも令令和和□□年年□□月月□□□□日日筆筆者者撮撮影影□□図□□旧市役所(米子市立山陰歴史館)と米子城址(天守閣は筆者が加筆)□路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 (出所)図4・5とも令和7年1月26日筆者撮影
元のページ ../index.html#63