図3 広域図(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成かくばんちょう17年(2005)のピークでも15万人弱である。それ(1959)、紺屋町から法勝寺町にかけて、そして山陰・(1963)12月、駅前の日ノ丸自動車のバスターミナ9号線の拡幅に伴い、立ち退いた商店と地元スーパー「える・もーる1番街」である。「角盤町一丁目ニュー落合時計国勢調査から米子市の人口の推移をみると、平成でも百貨店が2店あり、現在まで営業を続けていることから、米子の拠点性の高さと商圏人口の広さがうかがえる。米子の戦後商業史をまとめると、まずは昭和34年出雲街道に沿って駅前までL字形の道筋に、山陰地方で初めてのアーケード商店街ができた。昭和38年ルを包み込む形で「米子ストア」が開店した。米子ストアは鳥取市に本店を構える百貨店「鳥取大丸」の子会社で、鳥取大丸の持分を日ノ丸自動車や百貨店大手の大丸が保有していた。昭和39年(1964)4月、角島屋が開店した。最上階に大食堂を備えた都市型百貨店だった。昭和45年(1970)9月、前面を走る国道の丸合が協同組合を設立し、高島屋向かいに寄合百貨店「やよいデパート」を開店した。翌年12月、米子ストアは百貨店に業態転換し、看板も米子大丸に変えた。昭和56年(1981)11月、高島屋とやよいデパートに挟まれた角盤町商店街にアーケードが架かった。昭和58年(1983)、最高路線価地点がえる・もーる1番街の店」となる。角盤町は元々桑畑が広がる郊外だった。図2を見ると角盤町から境線までの一帯が碁盤の目状の区画であることがわかる。明治末期、鉄道開通の頃に区画整理されたエリアで、山陰本線全通記念の全国特産品博覧会の会場や、角盤高等小学校、啓成小学校が配置された。戦後、角盤高等小学校が米子市公会堂に、啓成小学校は米子高島屋になった。昭和43年(1968)、外浜産業道路が開通。拡幅された国道9号線とともに郊外のバイパス道路となった。その後、自動車の普及につれて、バイパス沿いにロードサイド店が出店するようになった。郊外大型店で最も早いのは、法勝寺町にあった衣料品店「菊屋」の子会社による「米子ホープタウン」である。最高路線価が角盤町となる前年の昭和57年(1982)7月の開店だった。全国で総合スーパー(GMS)を展開していたニチイ(後のマイカル)との提携、米子サティへの名称変更等を経て令和4年1月末に閉店。店舗は改装され、MEGAドン・キホーテとして昨年再開店した。他方、米子大丸は苦戦を強いられていた。大丸グループから離脱し、岡山に本店を構える百貨店の天満屋が経営を引き継ぐことになった。持分譲渡されたのは昭和61年(1986)4月だが、「米子大丸」のまま営業が継続されていた。平成2年(1990)、国道9号線・外浜産業道路と皆生街道が交差する場所に、郊外型百貨店を開店し、「米子しんまち天満屋」として移転することになった。地元商店街の2代目が中心となって立ち上げたショッピングセンター(SC)「米子しんまち」の核テナントで、当時は山陰最大とうたわれた。米子駅前には平成2年(1990)、「米子サティ」が開店した。第三セクターの米子市開発公社が駅前活性化を目途に再開発ビルを建て、マイカルグループ(元に5階建の米子高盤町米子しんまち天満屋‘90.10/20,900㎡イオンモール日吉津’99.3/36,589㎡米子□□イオン米子駅前(米子サティ)‘90.6/16,193㎡□□米子高島屋□高島屋□‘64.4/16,193㎡□□□□ドン・キホーテ(米子ホープタウン)’82.7/12,662㎡連載路線価でひもとく街の歴史角盤町にできた大型店街ロードサイド店の席巻 58 ファイナンス 2025 Feb.
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