や四屋町じ勝寺町や旧市役所市役所合銀高島屋丸合跡大丸跡街道筋廃線跡四日市町法勝寺町日野町大学病院米子城跡新加茂川大工町米子信金(米子跡)塩町米子港水路跡公会堂後藤駅□□↓第□跡スタバ米子↓合銀跡□□□クラウンプラザホテル卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍鳥取大学医学部ビッグシップ明治町茶町加茂川博覧会会場跡→高等女学校跡→ふれあいの里米子駅糀町博労町紺屋町第□→安田→富士道笑町京橋やよい跡後藤家山陰街道角盤町(える・もーる1番街)卍卍松江跡路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史 ほっしょうまちよっかいちまちこんまちみくり(1941)には松江銀行と合併して山陰合同銀行になった。米子銀行を立ち上げたのは坂口平兵衛(初代)である。坂口家は元々木綿仲買業を営んでいたが、明治に入り製糸業に転身。産業資本家として、米子汽船、米子倉庫、米子製鋼所、山陰電気等の起業に関わった。病院や学校の設立にも貢献し、米子を代表する大地主でもあった。坂口平兵衛は明治に立ち上げた名跡でその後も継承され、現在は4代目だ。代々米子商工会議所の会頭を務めている。最高地価の初出は明治43年(1910)の鳥取県統計書である。この時点では米子の最高地価は「米子町大字法」だった。明治後期にかけて、京橋界隈から境港往還に沿って米子の中心が内陸に移ってきたことがうかがえる。法勝寺町は、出雲街道、山陰街道、境港往還が交差する場所にあった。米子は、姫路を起点に津山を経由し出雲大社を目指す出雲街道の街でもある。法勝寺町には、後に米子銀行と合併し山陰合同銀行となる松江銀行の米子支店もあった。大正7年(1918)の進出時は紺屋町にあったが、昭和6年(1931)に移転してきた。道府県の最高地価が掲載されている大蔵省主税局統計年報書を調べると、明治43年は県内の最高地価が鳥取市から米子に移った年でもある。以降、戦前で最も新しい昭和9年(1934)まで米子だった。戦後、昭和32年(1957)の路線価図をみると、米子の最高路線価は法勝寺町と同じ通りの隣町、日市町、紺ため、戦前戦後を経た街の変化は小さい。今も城下町以来の区画をよく残しており、当時の小径も多い。最高路線価の地点名の初出は昭和48年(1973)で、「明治町日本交通バス待合所前通り」だった。この時点で一等地は駅前に移っていた。京橋界隈から法勝寺町へ、米子の街の中心が湊から内陸に移る引力となったのも駅である。米子に初めて鉄道が開業したのは明治35年(1902)11月。明治5年(1872)10月、新橋-横浜間にわが国で初めて鉄道が開業してから30年目になっていた。戦災を受けなかっただった。山陰地方でも初めての鉄道であることから、米子は国鉄が公式に認定する12の「鉄道の町」の1つに選ばれており、これを顕彰した「山陰鉄道発祥の地」の碑が米子駅前にある。資材輸送の都合で境港駅(当初は「境駅」)から線路が延び、米子駅でスイッチバックして20km東の山陰本線御1期開業となった。後に米子から安来、松江方面に山陰本線が延伸されてから、米子駅-境港駅の間は支線となった。現在の境線である。明治45年(1912)に京都駅から出雲今市駅(現・出雲市駅)まで全通する。日本の東西幹線と連絡したことから、大正以降、海運から鉄道へ交通手段の交代が進んだ。来屋駅までが第中心は法勝寺町へ鉄道の町・米子と駅前の時代ファイナンス 2025 Feb. 57図2 市街図(出所)筆者作成
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