ファイナンス 2025年2月号 No.711
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SPOT「強靱な連邦」論は動学的な均衡を描き、公共選択論は憲法のような基本ルールの生成を説明するが、あくまでも各アクターは和解も反省することもなく、メカニカルな均衡へと導かれるだけである。規範をすり減らす、ぎりぎりの競争へと派閥が突入しようとする時、そのよう競争を抑止するロジックを欠いているのである。ふたつのアプローチにとって当面の試金石は、トランプをどのように受け止めるかということである。歴史を振り返ると、アメリカの政党がポピュリストに乗っ取られたことは過去にもある。例えば、ジェファーソンのもとで勢力を拡大した民主共和党は、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンのもと、西部の開拓農民や産業労働者の利害を代弁する政党に変質した。共和党のトランプ党化を、二大政党制が民意を受け止める機能を発揮した証左とみるか、それとも、民主主義への脅威とみて防圧の対象とするのか、重要な岐路である。政治に反映されていなかった声が政治に届く時、従前の規範を破壊することで、政治に新しい秩序がもたらされることがある。ルールの破壊を一概に否定するものではない。ジャクソンは、自身を「コモンマン」のスポークスマンと呼び、あらゆる官職の責務は簡単明瞭なものであり、誰でもそれを遂行する資格を持つとして、官僚交代制を推進した*5。熟議民主主義者の中には、ポピュリズムの伸長をむしろ自らの出番と考える論者もいる。OECDで熟議民主主義のプログラム(OECD, 2022)を率いてきた、クラウディア・シュワリーツ(Claudia Chwalisz、DemocracyNext)は、熟議民主主義は「自分たちの土地に住むよそ者」の声を取り入れる格好の舞台であるとする(Chwalisz, 2015)。フィシュキンは、ネットを活用することで熟議をより広範な市民の間で実施することを構想している。それでも、世の中には妥協できない悪が存在することがある。ナチスへの融和策は評判の悪い政策の最たるものである。ジャクソンによる先住民の追放(涙の道)は、(土地を欲していた)コモンマンの意思の残酷なあらわれである。コモンマンがその意思を持つことは、その意思が道徳的に正しいことまでを担保するものではない*6。アメリカでの人種差別は二十世紀半ば過ぎまでつづいた最近の話であり、人種問題の後退への黒人の警戒感は歴史に根差している(南北戦争期の南部に関しては、コラム3.3を参照)。それでも、歴史の渦中にある人間にとって、なにが妥協してもよいもので、なにが妥協の余地のないものであるのか、見極めることは常に容易というわけではない。*7すこと)を違憲であると判決した(Worcester v. Gorgia, 1932)が、ジャクソンは判決の執行を拒否した。*5) 阿部(1972)*6) 追放は、不道徳なものであるにとどまらず、その一部は不法なものでもあった。当時、連邦最高裁は、追放政策の一部(州が先住民の土地に規制を課*7) ドレッド・スコット判決(1857)とは、連邦最高裁判所がミズーリ協定を憲法違反とし、自由州での奴隷所有を認めた判決である。カンザス・ネブラスカ法とともに奴隷制拡大派の民主党の主張に沿ったものであったので、奴隷制度に反対する勢力が反発し、共和党に結集、南北戦争への引き金となった。南北戦争期の南部の人々が何を考えていたのか知るには、古文書を紐解くほかに、経済データを発掘し、計量分析を加えることから迫る方法がある。ジョナサン・プリチェット(Jonathan Pritchett、テュレーン大学)らは、南北戦争(1861年4月〜1865年4月)前、最大規模の奴隷市場のあったニューオーリンズのデータをに基づき、この問題に取り組んだ(Calomiris and Pritchett, 2016)。奴隷の取引価格をみると、南北戦争前の1857年のドレッド・スコット判決のあとも価格は上昇を続け*7、ようやくリンカーンの選出(1860年11月)のころから下がりはじめ、一時の小休止を経て、サムター砦での戦い(同年4月)から再び下落に転じている。この値動きをみると、南部の人々はドレッド・スコット判決のことは南部の主張に沿ったものと歓迎したものの、その後、いよいよ戦争が迫ってくると、いずれは(奴隷所有者への)補償のない奴隷解放が実現するのではないかと心配になってきたと解釈するかもしれない。しかしながら、プリチェットらは、資産価格の下落はなにも奴隷に限らず、株式などの他の資産も下落していたことを指摘する。そして、図3.8の示す通り、成人男性の奴隷に比べて、子どもの奴隷の価格が相対的に大きく下落する現象がみられなかったことを明らかにした。子どもはすぐには役に立たないため、補償なしの解放の可能性が高まったと考えると、大人の奴隷に比べて大きく価格が下がるはずであるが、そのような現象はみられなかったというのである。この値動きから、プリチェットらは、当時の南部の人たちは戦争の結果、補償なしの奴隷解放が行われるとは予想していなかったと指摘する。 36 ファイナンス 2025 Feb.コラム3.3:南部における民主政の崩壊

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