(1817)を認めることになった。この第二銀行の憲法上の設置根拠はといえば、「(議会が)必要かつ適切なすべての法律を制定する権限」という、ハミルトンの合衆国銀行と同じ条項に求めるほかなかった。SPOTルソーとマディソンの伝統は、それぞれアメリカの民主主義のなかに根付いている。ルソーの伝統は、草の根の市民の意見交換である、地方のタウンミーティングなどに残っている。リベラルの思想的伝統を通じて、民主党のエリートの間に深く浸透している。他方、マディソンの伝統は合衆国憲法の設計思想そのものである。連邦政府に対して、州や民間の自律性を重くみる思想とも結びつき、共和党と深い関係を持ってきた。これらの二つの異なる伝統は、時に共鳴し、時にすれ違いながら併存してきた。表3.1は、これまでの議論を整理したものである。ルソーの伝統は、ひとつの真なる解の存在を想定する。熟議や無知のベールの手続きを通じて、人々は相互に反省し、和解に至ることが期待される。マディソンの伝統は抑制均衡を通じ、特定の勢力が権力を独占することを阻止することを目指す。人々は相互作用するが、元の利害や価値観を維持したまま、均衡へと至る。各アプローチにはそれぞれの問題点がある。ルソーの一般意思は、皆が社会にとって望ましいものは何であるかを考えることが前提となっている。ミツバチの働きバチは直接の子孫を残さないため、彼女らは群れにとって何が良いかを考えるよう宿命づけられている。(b) 奴隷の住処(再建、左端にみえる建物はマディソンの本邸の一部)The Federalist Papersでマディソンの書いた部分を読むと、ハミルトンの手による部分よりも直線的な連邦権限強化の主張が弱く、競争、抑制均衡を重視していることがわかる。フェデラリストとしてのマディソンの魅フェデラリストとしてのマディソンを示すひとつの事例が、制憲過程でネガティブ条項を提案したことである。ネガティブ条項も最終的に実現しなかったが、この条項は、州による立法が連邦憲法に反すると認める場合、連邦議会が州の立法を覆すことを認める条項である。同条項が通っていたら、アメリカ史はまったく異なるものとなっていたかもしれない。例えば、南北戦争前に南部では奴隷制に反対することや、南が北に比べて経済的に劣っていると述べることが禁じられていた。このような措置は連邦憲法(修正第1条)上問題となった可能性がある。南北戦争後には、南部で施行されたジムクロウ(人種差別措置)を却下する動きが出た可能性がある。公民権法を待たずに人種問題の解決が促されたかもしれない。逆に分断の著しい最近の状況に鑑みると、ネガティブ条項がないことは、国の多様性を維持し、国が分裂することを防いでいるともいえる。ネガティブ条項は、多くの紛争を未然に防いだかもしれないし、逆により多くの紛争を生んだかもしれない。力を、ヴァージニア人としてのマディソンと完全に切り離すのも難しいとも感ずる。ヴァージニア州のモントピリア(Montpelier)では、マディソンの旧邸が保存、公開されている。邸宅では、マディソンが憲法の草案を練った書斎(図3.7(a))のほか、使役していた奴隷の住処((b)、再建)をみることができる。図3.7:マディソンの旧邸(a)憲法の草案を練った書斎からの眺め 34 ファイナンス 2025 Feb.(3)小括(出典)筆者撮影
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