SPOT ファイナンス 2025 Jan. 24も、漢字には、日本語特有の訓読みがあるだけでなく歴史的な漢音、呉音、宋音といった様々な読み方がある。漢字学者である白川静氏は「漢字は国字」だとしていたのだ。ところが、漢字を自国語化しなかった韓国では、漢字の読み方は、それぞれの時代の中国と同じ一種類しかなかった。その状態で、漢字を廃止しても何の問題もないと考えられたのである。そもそも、ハングルは漢字の読み方を正確に発音するためだけにつくられた「表音文字」で、「表意文字」である漢字の意味とは全く関係のない文字だった。それは、日本語をローマ字表記にしたと考えればイメージ出来よう。そのような朝鮮半島における文字の歴史について、呉善花氏は、韓国は漢字を国字化しなかったために韓語(固有語)と漢語が互いに独立して常に対立し排除しあう力関係から離れることができなかったとしている。韓語と漢語は互いに結びつく手段をもたず、並列してそれぞれ別個に使われてきたため、漢字文化が広まれば同じ意味をもつ韓語が消え去ったり、ハングル文化となれば音だけではわかりにくい漢語が消え去ったりという事態が起きてきたのだという。それに対して日本では、音訓の二重性をもって漢語と和語がしっかりと結びついて使われ、相互に排除しあうことがなかった。例えば「傍若無人」という漢文に返り点・送り仮名をつけて「傍(かたわら)に人無きがごと若く(ごとく)」と訓読みにすると、日本語そのものとして一般の庶民にも明確に理解できる。そのようなことがない韓国では、少数の天才的な人たちだけが、元の漢文のままで正確な漢文の理解をしてきた。結果として、李氏朝鮮の儒学のレベルは極めて高く、江戸時代に朝鮮通信使がやってくると、多くの日本人が競ってそれに習おうとしたという。ただ、そのレベルの高さは、漢文を読めない大多数の朝鮮半島の人々にとっては無縁のもので、儒学の古典は近づき難いものだったという*33。筆者は、朝鮮半島における近世の漢字廃止の背景には、そのような漢字をめぐる事情に加えて、中国の革命思想の影響があると考えている。明治維新期、西欧列強の圧迫の下に清朝が滅びたことは、朝鮮半島の人々にとっては王朝の交代に等しいものだった。そして誕生した新たな王朝である西欧列強が用いているのは、漢字のような表意文字ではなく表音文字だった。そして足元を見れば、朝鮮半島には表音文字という観点からすると西欧語よりもよほど合理的に作られたハングル文字があった。となると、韓国語を合理的なハングル文字にするのに、何の躊躇もないことになる。そんなわけで、中国の革命思想をそのまま受け継いでいる北朝鮮の金「王朝」が、真っ先に漢字を廃止して全面ハングル化したというわけである。ここから、全面ハングル化による韓国の漢字文化からの断絶という問題について見ていくこととしたい。それは、漢字の同音異義語が区別できなくなってしまったことに象徴されている。韓国では漢字の読み方は一種類だったので、読み方という観点からは漢字の全面ハングル化に特別な問題は生じなかったが、表意文字である漢字を捨て去ったことによって、同音異義語の区別が出来なくなってしまい多くの語彙が失われていったのである。例えば、ハングルで「にちろせんそうのせんきは」と書いた場合、その「せんき」は戦記なのか戦機なのかが分からない。そこで、戦機なら「戦いのチャンスを得て」などと書くようになった。「せんき」という発音で「疝気」といった難しい言葉は、そもそも使わなくなってしまった。法律書で「せんきでは……」とあるのを「先規」の意味で理解できる人は、かなりのインテリしかいなくなってしまった。それは、韓国人の理解する語彙が急速に少なくなったことを意味していた。韓国語には日本語以上に漢字語の影響が強く、一般の文書で使われていた語彙の約70パーセントが漢字語で、公文書となると90パーセント以上が漢字語だったことから、その影響には多大なものがあった。韓国東方研究会会長の金庸要顕氏は、全面ハングル化によって、韓国は80パーセント以上の語彙を失った。その大部分は、日常的にはあまり使われないものだったが、しかし高度な思考を展開するにはなくてはならない概念語、抽象語、専門語など「漢語高級語彙」の一群だった。そのような語彙を失ったことは、韓国語全面ハングル化による語彙の喪失日本語と日本人(第10回)*33) 呉善花、2008、p20、p83、89
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