SPOTハングルは、1443年に李朝第4代の世宗がモンゴルのパクパ文字を基礎として創り出したもので訓民正音と言われた。訓民正音とは、民に正しい音を訓(おし)えるという意味である。当時、李朝では、人間の発する音声は単なる音ではなく万物の真理が込められていると考えられていたことから、儒教を国教とした李朝が、漢字が読めない庶民にも朱子学の漢籍を正しく発音できるようにしようとしたのだった*23。それは、文字を全く知らない庶民にも漢籍を正しく発音できるようにということから、単音文字の字形を組み合わせて音節文字に仕立て上げた極めて合理的な表音文字だった*24。ただ、庶民がそれを使って日常のコミュニケーションができるようにというものではなかったので、日本のように漢字に訓読みにあたるものを創り出そうといったことは全く行われず、支配層からは卑俗な文字(諺文:おんもん)として忌避された*25。漢字以外の文字を使うことは蛮夷の仕業だとの華夷意識があったのである*26。ただ、そのような状況下でも訓民正音で日記をつけたり手紙を出したりする女性があらわれ、1000種以上の訓民正音文学が生まれた*27。李朝末期には、大きな動きにはならなかったが、合理的な文字である訓民正音を「偉大なる(ハン)・文字訓民正音が朝鮮半島で本格的に用いられるようになったのは、明治19年に、福沢諭吉の発案で、日本で鋳造したハングル活字を用いた『漠城周報』*28が発行されるようになってからだったという*29。それ以降、漢字ハングル交じりの文章が普通に用いられるようになり、日韓併合後には政府による奨励策を受けて漢字ハングル交じりの韓国文学が発展していった。同時に起こったのが、日本語にならっての韓国語の近代語化だった。韓国語は、日本語の語彙や構文を大胆に取り入れて近代語化していったのである*30。そのようにして漢字ハングル交じりになった韓国語は、戦後の全面ハングル化で一変することになった*31。北朝鮮は1948年の建国の際に漢字を廃止して全面ハングル化し、韓国も1970年に漢字廃止を宣言して漢字教育を全廃した。以後、しだいに新聞、雑誌、書物から漢字が消え去り、漢字に支えられていた文化が失われていくことになった。画家で文人でもあった呉之湖氏は、大学を出ても「自分の国の言葉で書かれた(かつての)新聞すらまともに読めない者など、人類の歴史上どこにも探すことができない。(中略)我が民族文化は、漢字と漢字語を基盤につくられて発展してきた。漢字を廃止することによって、数千年間続いてきた固有文化は、その伝統が断絶する」とした。さすがに、その弊害を憂慮した韓国政府が、1999年に漢字再導入政策にかじを切ったが、一度失われた漢字文化の復活は起こらなかった。漢字を排斥していた間に人口の80パーセントほどが漢字を使わないハングル世代になってしまっていたからだという*32。韓国の国語学者朴光敏氏がソウルのある高校の3年生50名を調査したところ、両親の名前を漢字で書ける生徒は20名にすぎなかった。また、ある名門大学出の新入社員は「民族」「地球」「先祖」「過去」「使用」「生活」「社会」「歴史」などの漢字のうち、書けたのは一つだけだったという。それにしても、なぜ韓国で全面ハングル化が可能だったのだろうか。漢字をなくしてしまったのでは読みにくくて仕方がないというのが日本人の感覚だろう。我が国でも明治維新期に、カタカナだけにすべきだという提言がなされたことがあったが、実現しなかった。それは、日本語が目で見てわかる漢字を自国語化した結果、日本語が大変ビジュアルな言語になって、漢字を見なければ音で聴いただけではなかなか正しくは理解できない言語になっているからだ。しか(グル)」とするハングル振興運動もおこった。全面ハングル化の背景*23) 「朝鮮半島の歴史」新城道彦、新潮選書、2023,p43−44*24) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023、p253−59*25) かつては西欧でも、真理はラテン語でなければ絶対に表現できないとされていた(「〈世界史〉の哲学 東洋編」大澤真幸、講談社、2014、p54)*26) 新城道彦、2023,p43−44*27) 趙景達、2024、p128.なお、朝鮮半島では、日本の古代のように女性が高級官僚になるといったことはなかった(「□の平安前期」榎村寛之、中公*28) 「漠城周報」は、李朝の「官報」の役割をも果たしていた*29) 「漢字廃止で韓国に何が起きたか」呉善花、PHP、2008、p19*30) 「隣国の発見」□大均、筑摩書房、2023、p10*31) 実は、中国も漢字の廃止を検討していた。中華人民共和国は「拼音(ぴんいん)羅馬字」というアルファベット方式を導入し、その途中過程として簡体字を導入した。その簡体字の状態が固定化しているのが現状である。中華民国も「注音字母」という日本のカタカナのような文字を作ったが、台湾に移ってからは、旧来の漢字使用を続けている(「漢字と日本人」高島俊男、文春新書、2001、p175−76)。*32) 呉善花、2008、p32、38、44新書、2023,p77−97、221−22)。 23 ファイナンス 2025 Jan.
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