SPOTて三跪九叩頭の礼をもって臣従を誓わされ、それを石碑にとどめられた。ただ、表面上は臣従しながらも、公文書に満州文字を使う清朝よりも全ての文書に漢字を使う自国のほうが中華文明の本流だとして小中華を称した。そのような李氏朝鮮を日本人は大いに尊敬した。利休の始めた侘茶では、朝鮮の井戸茶碗を薄茶器として愛でていた。江戸時代、朝鮮通信使が訪れると、儒教の教えを請おうと面会を求める者が殺到したという。李氏朝鮮が小中華を自称した朝鮮半島では、中国の革命思想に従って王朝が変わるたびに古いものを捨てて新たな歴史や文化が創り出されてきた*8。分かりやすいのは、日本の古墳時代に行われたと思われる中国風の名前への改名である。今日の韓国人の名前には、金さんや李さんといったおめでたい中国風の名前がほとんどだ。しかしながら、日本の古文書にあるのは随分と長い名前だったのだ*9。文化で言えば、例えば焼き物は、高麗王朝が李氏朝鮮になると、それまでの青磁が白磁にすっかり変わってしまった。宗教の扱いも王朝が変わると大きく変えられた。仏教は、かつて百済の聖王が日本に伝えたもので、朝鮮半島で広く信仰されていたが、李氏朝鮮が儒教を国教とした後には支配層からはほとんど顧みられなくなり、都市部の仏教寺院は一掃された。全国に1万以上もあった寺院は242に限定され、それ以外の寺院の所有地と奴卑は没収され、多くの僧侶が賎民階級に身分を落とされたという*10。李氏朝鮮の時代に、特筆すべきことは経済の停滞だった。李氏朝鮮の国史である「李朝実録」*11によると、耕地面積は李朝開国からの215年間に4割弱減少し、人口も李朝英祖29年からの151年間に2割弱減少したという。戦前、京城大学の教授で、戦後、東京大学名誉教授、昭和財政史の監修者も務めた鈴木武雄氏が「朝鮮統治の性格と実績-反省と反批判」という報告書の中で指摘していることである*12。同様のことは、韓国の経済学者も指摘しており*13、小渕元総理の肝いりで2002年から始められた日韓歴史共同研究では日本側の学者から指摘されている。李氏朝鮮で経済の停滞をもたらしたのは、支配層の理不尽な統治だったようだ。イザベラ・バードの「朝鮮紀行」によれば、「朝鮮中のだれもが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食を賄う以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っている」「小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと迫ってくる。貸せばたいがい現金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、(中略)要求金額を用意しない限り笞で打たれる」という状態だったのだ。ちなみに、イザベラ・バードは、ロシアの支配下にあった満州での朝鮮人の活躍ぶりを見て、朝鮮人は本来優秀なのでロシアの支配下に入れば大きく発展するに違いないと述べていた*14。そのような理不尽な支配層の支配について、宮脇淳子氏は、大陸に向かって開いている朝鮮半島には、次から次へと異民族が押し寄せて支配階層が変わったので、新たな支配階層は異民族を差別し、肉体労働は異民族である奴隷にさせればいいと考えたからだとしている*15。奴隷制は、李氏朝鮮が採用した儒教の一君万民の思想からは認められないものだったがなかなか改められず、明治維新期にもその数は相当少なくなっていたとはいえ存続していた*16。それを同一民族としておかしいとしたのが、福沢諭吉に学んで朝鮮の近代化を図ろうとした金玉均だった。ところが、そのような金玉均は李王朝から危険人物として上海で暗殺され、その死体は朝鮮に運ばれて、首、胴体、腕、脚などをバラバラにして晒す凌遅刑にされてしまったのだった*17。ここから韓国語の変遷を見ていくこととしたい。ま韓国語の特徴*8) 韓国が、新たな文化を受け入れるのに前向きなことについてエマニュエル・トッド氏は、韓国の文化は外向き(ドイツ文化と等価)だからだとしてい*9) 例えば日本書紀には、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)といった名前が記載されている(「渡来人と帰化人」田中史生、角川選書、2019p44)*10) 2012年に起こった韓国人による対馬の寺院からの仏像盗難事件の仏像も、その際に対馬に流れてきた可能性が高いと考えられる。寺院は遊楽の場と*11) 李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。*12) 「朝鮮統治の性格と実績−反省と反批判」鈴木武雄、外務省調査局第三課1946.3、p41−42*13) 「植民地期朝鮮の国民経済計算」金洛年(編集)、東京大学出版会、2008*14) 日露戦争でロシアが勝利すれば、あり得たシナリオである。*15) 「中国・韓国の正体」宮脇淳子、ワック、2019*16) 「朝鮮民衆の社会史 現代韓国の源流を探る」趙景達、岩波新書、2024、p66,68−71*17) 宮脇淳子、2019,p50−57。その事件は、福沢諭吉が脱亜入欧を唱えるようになった契機だともいわれている。る。内向きの日本文化とは正反対だという(「我々はどこから来て、今どこにいるのか?(下)」エマニュエル・トッド、文芸春秋、2022、p196)して、また儒教規範に縛られた女性たちの避難所(アジール)として存続した(「朝鮮民衆の社会史」趙景達、2024、岩波新書、p132−33)。 21 ファイナンス 2025 Jan.
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