連載セミナー昆虫の知能はAIを超えるか:生物知能を科学的につかうところが、この視細胞の電気的反応を計ってみると、なんと皆さんそれぞれで反応が少しずつ異なるのです。つまり、視細胞から脳には違った信号が届くことで、皆さんは「赤」を感じているのです。外界にある同じリンゴの赤を見ているかもしれませんが、実は、皆さんが感じている「赤」は、皆さんそれぞれで少しずつ違っているのです。計測装置で計れば一本のピークが立つのですが、生物の感覚器はそうはいきません。まさに生物の多様性です。私たちはこのように主観の世界で生きているわけです。私が尊敬するヤーコプ・フォン・ユクスキュル(ドイツの生物学者)は、今日の脳科学や神経科学の知見を全く知らない時代においてすでに、「生物により環境の捉え方は異なる」と言っています。これは彼の著書「生物から見た世界」にある挿絵ですが、リビングダイニングにある書棚とかベンチ、テーブル、食べ物、電灯、机などを色分けすることで、人と犬、ハエで、同じ環境でもその意味が違うことを示しています。人の世界では書棚、ベンチ、テーブルなどすべてに意味があるけれども、犬にとっては、ベンチとイスと食べ物ぐらい、ハエのような昆虫にとっては、電灯と食べ物ぐらいには意味があるが、あとは意味がない、価値がない、というわけです。そして、ユクスキュルは、「“環境”はすべての生物を取り囲む客観的なものではなく,生物自身を中心にして意味(価値)を与えるもの」と結論付けています。現代の私たちはそのような世界の違いを計測技術を使うことで、サイエンスとして理解できますが、そのような情報がない時代に、ユクスキュル、さらにはカントのような哲学者が主観世界、客観世界とはどのようなものかという議論を展開していたことは驚きです。自然の世界を人間を中心とした視座でみてしまうと、環境世界でもご紹介したように、狭い世界しかわかりません。視座をひとたび自然へと転回することで広大な世界が広がってきます。人以外の生物が進化で獲得した多様な環境世界を知ることで、自然の内に秘められた未知の情報の価値を紐解くことができるのです。私たちは「見えないものには価値がない」と思いがちですが、その見えない世界にこそ大きな価値が潜んでいるわけです。それがまさに新しい価値創造につながると思います。今まではどうしても人のロジックで判断できる認知世界、意識の世界、土俵だけで課題の解決に当たってきたわけですが、視座を転回して動物たち、特に昆虫の世界からその課題を見直すと、これまで未解決の課題、また同じ課題に対しても違った角度から解くための鍵を知ることができるのです。人が考えもしなかった、思いもつかなかった課題解決の道筋が浮かび上がってくるわけです。このような課題解決法は、生物が長い歴史の中で自然との相互作用から生み出されてきたものであり、自然と協調・共存しながら持続的な社会を創造するうえでの重要な鍵になると思います。人が知らない自然界の力を利用することは、AIにはできないことであり、私たちがこれから深く探究していく必要があると考えています。わが国がリードしてこのような取り組みを積極的に進めてほしいと思っています。ここからは、昆虫の知能はAIを超えるかということをテーマに、人ではなく昆虫の知能から現代の科学技術では解けない問題を解くための鍵が得られることをご紹介します。昆虫は、地球上に生息する180万種の生物のうち実に100万種以上占め、あらゆる環境下で生息しています。まさに環境下でどのような信号を検知し、それをどのように処理をすれば課題解決に至るかを知っているわけです。昆虫のからだは小さいですが、体表にセンサを張り巡らせ、小さな脳による処理で様々な知的な能力を発揮します。昆虫の脳を作る神経細胞(ニューロン)はヒトと同じです。ヒトの脳は巨大で1,000億個もの神経細胞からできているのに対して、昆虫はわずかに10万個で、人の100万分の1のスケールです。このような昆虫ですが、想像を超えた能力を発揮します。例えば、昆虫の顔はみな同じだと思われている 84 ファイナンス 2024 Dec.1.昆虫の知能4.「見えない世界」に価値を見出す
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