ファイナンス 2024年12月号 No.709
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ほうどき宜放龍連載セミナー りゅう令和6年度職員トップセミナー17世紀から発展したいわゆる科学技術は人間を中心として、人と自然を切り離して対象とすることで発展してきました。もちろんこの方向性も大切で、人類は大きな恩恵を受けてきました。しかし、自然との共存や持続社会を考えると、欠けているところがあるのではないか、人間中心に偏りすぎているのではないかということです。「見える幸せ」に取り組み、それをWell-beingと呼んでいるのだろう、とは思うのですが、一方で、心のつながりや、自然との協調・共存、また感性のような「目に見えない」つながりに関してはほとんど考慮されていないのではと思ったのです。私たちの行動には脳の働きが大きく関わっています。この脳には大きく2つの働きがあります。1つは大脳新皮質の役割で、ヒト独特の理性や認知、いわゆる科学技術を生み出す働きです。これによりロジックを作り意識して行動できるわけです。もう1つの脳の役割は、感性や本能など言葉では表現が難しい働きで、無意識もそれに含まれます。感性や本能は芸術ともかかわり、生物が自然と調和し、自然と一体化していく、そんな脳の働きです。理性はヒトに特徴的な働きで、まさに現代の科学技術を生み出してきました。17世紀ごろから発展した近代科学では、自然を科学の対象とするため、人と自然を切り離し、自然を理解し、自然を制御・利用しようという方向で大きく発展しました。その結果、人類に多大な恩恵をもたらしました。一方で、自然への過剰な負荷により、環境やエネルギーや資源など様々な課題をグローバルなレベルで生むことにもなったのです。冷静に考えれば、人というのは自然と切り離せない存在であって、人も自然の一部であるということに気づくはずです。当たり前のことでありながら、人間を中心とした現代社会においては軽視されてきたところでもあるわけです。様々な課題は自然とともに、自然を中心として考えて解決していくことが、本来あるべき姿ではないのか。特に我々日本人は「水にも石にも神や仏が宿る」、あらゆるものがいのちを持ち、大切であると感じる高い精神性を持っていると思います。そのような精神性から、「もったいない」のこころも生まれてきたと思います。自然との関係性の中でもう一度、科学技術のこれからの在り方を考えていく必要性があるのではないか、そのような問題意識を持ったわけです。繰り返しになりますが、人間を中心とした視座では、人と自然を分離する、個と全体も分ける、自と他も分ける、物と心を分ける、そういうところから最適解を目指すという方向性だったわけです。人と自然を分離した結果、様々な課題が起きてきた。これは周知の事実です。私たちはこれまで、理性を中心に据えたうえで、感性が大切だ、こころも、倫理も、人間性も大切だと、問題が起こるたびにパッチを当てるようにそれらを付け足してきたように思います。実はこの方向性は逆なのではないでしょうか。感性や人間性が先にあって、そういう中から理性、すなわち科学技術を発展、展開させていくことが、本来の姿なのではないでしょうか。これが本来の科学や技術の進むべき姿だと私は考えています。そのような考えを巡らしていたときに、空海の思想に行き当たったわけです。空海は実に1200年以上前に、高野山においてそのような思想を展開していたのです。空海と科学者とはかなり乖離がありますが、高野山のある紀伊山地(和歌山県)に南方熊楠がいてくれたというのは、私にとっては非常にありがたいことでした。南方熊楠は自然界を「南方マンダラ」という世界観で表しています。彼は土言宗の管長とイギリスで出会い、長らく交流を持っていました。そのような中から、熊楠は自然の大切さというのでしょうか、人も自然の一部だという精神性をもとに熊楠の自然、宇宙、生態学の概念を生み出したのではないかと思うのです。熊楠の背景には自然があり、空海がおり、高野山があったわけです。このような関係性に後押しされ、空海の宇宙をも包括する世界観とこれからの科学技術の方向性を考えるため高野山に行くことにしたのです。当時、高野山金剛峯寺のトップ(宗務総長)の方といろいろとお話をさせていただいたのですが、残念ながらなかなか相手にしてくれませんでした。「我々科学者は、科学技術によってだれも(あらゆるもの)がという後の高野山真3.人間中心から自然中心への視座の転回4.科学、芸術、宗教の調和:高野山会議ファイナンス 2024 Dec. 81

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