ファイナンス 2024年12月号 No.709
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第58回 岐阜県岐阜市第58回 岐阜県岐阜市や屋町いなば奈波お鮨連載路線価でひもとく街の歴史すしかわらまちうつぼちょうセンターゾーンで再結合する新旧4代の中心地センターゾーンで再結合する新旧4代の中心地御鮨街道と□屋町路面電車の開通と今小町図1 川原町(玉井町)の街なみ永禄10年(1567)、織田上総介信長が岐阜に入城。諸説あるが、“岐阜”は「周の文王、岐山より起り、天下を定む」の故事に則り信長が命名した地名だ。その後「天下布武」の印章が使われ始めた。城山の金華山の古称は稲葉山といい山麓の伊徳川の治世になると岐阜城は廃止され、中山道の宿場は城下町から南に3km余の加納に置かれた。現在の岐阜城は昭和31年(1956)に再建されたものだ。城は廃止されたが旧城下は長良川の舟運で繁栄した。川湊があった湊町、玉井町、元浜町の3町を総称して川という。今は往時の町家が並ぶ観光名所だ(図1)。長良川は1300年の歴史を持つ鵜飼が有名である。舟上のかがり火の下、鵜匠が鵜を操って鮎を獲る。将軍家に献上するため鮎は馴れ鮨にされて江戸に運ばれた。これにちなみ、岐阜から加納を経て美濃路との合流点だった四ツ家追分(愛知県稲沢市)に至るルートが御街道と呼ばれた。尾張街道・岐阜街道ともいう旧城下町のメインストリートである。筆者が調べた限り、岐阜の最も古い地価の記録は明治12年(1879)だ。『岐阜県統計書』によると当時の最高地価の所在地は御鮨街道の靱街道には岐阜初の銀行があった。明治6年(1873)に出店した三井組の出張所、後の三井銀行である。靱屋町の1つ南の米屋町にあった。主に公金を扱っており、民間に対する貸出には消極的だった。地元資本では明治10年(1877)創業の第十六国立銀行が嚆矢である。当時の国立銀行は旧士族の創業が多かったが、同行は地元商工業者・地主の8名が発起して旗上げされた。初代頭取は織物業の名跡12代渡辺甚吉である。当初は頭取実弟の松屋町の屋敷を賃借していたが、明治29年(1896)、中竹屋町に移転した。米屋町の1原町筋西で、現在は事務センターがある。国立銀行制度の終了後、明治29年(1896)に十六銀行となっている。明治20年(1887)1月、滋賀県の長浜から大垣まで到達していた官設鉄道が岐阜まで延伸された。JR岐阜駅の源流だが、御鮨街道沿いに置かれた駅の住所は隣の上加納村で加納駅といった。同年4月に木曽川橋梁が完成し三河湾の武豊駅まで延びた。この時点で日本海(敦賀)と太平洋(武豊)が、そして琵琶湖水運を介して瀬戸内海(神戸)が結ばれたことになる。明治21年(1888)3月、加納駅が300m程西に移転した。旧城下町から駅前道路を新設し、その突きあたりに駅を配置したかたちだ。明治22年(1889)に市制施行され岐阜市となったとき、上加納村のうち駅から北が岐阜市に編入された。先立って駅名も加納駅から岐阜駅に改称されている。駅前道路はその道幅から八間道路(8間=約15m)あるいは神田町通と呼ばれた。新設した道路の両側町を8分割し、神田町1丁目から8丁目まで配置した。南端の8丁目が駅前である。だった。御鮨神社にちなむ。 76 ファイナンス 2024 Dec.2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D270D275D2,350C2,390C610C550C540C600C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D275D510C240E295E(出所)令和6年9月11日に筆者撮影路線価でひもとく街のの歴史歴史路線価でひもとく街

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