ファイナンス 2024年12月号 No.709
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ライブラリー杉山 真評者三島由紀夫を知らぬ人はいないだろうが、元大蔵官僚ということで語られることはあまり多くない。三島(本名:平岡公威)の家系は、祖父・定太郎が原敬に引き立てられた内務官僚(元福島県知事、元樺太庁長官)、父・梓は岸信介と同期の農商務官僚(元農林省水産局長)、弟・千之も外務官僚(元駐ポルトガル大使)と、3代にわたる官僚一家である。三島は、父の強い意向で、昭和22年12月、「22年後期組」として大蔵省に入省する。同期には長岡実元大蔵事務次官がいる。三島は東京帝国大学法学部在学中に『花ざかりの森』(昭和19年)を出版し、川端康成の推薦で文芸誌に作品を発表するなどしていたが、文学で生活を立てるにはまだほど遠かった。生涯の負い目となる入隊検査での不合格、「園子」との初恋(『仮面の告白』(昭和24年))は入省の前々年、太宰治に面前で「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い放った(『私の遍歴時代』(昭和38年))のは入省の前年のことである。法学部生としての三島は、特に刑事訴訟法の「徹底した論理の進行」に惹かれ、それが彼の文学に大きな影響を与えた一方で、行政法は「プラクティカル」「非論理的」と嫌った(『法律と文学』(昭和36年))。そんな三島ではあったが、大蔵省と文学の両立を志し、銀行局国民貯蓄課に配属される。職員組合の教養講座で「平安朝文学における日本人の女性観」について講演したこともあった。しかし、帰宅後の深夜の執筆で寝不足が続き、渋谷駅のホームから線路に転落してしまう。出版社からは書き下ろしの長編小説の執筆依頼がもたらされ、結局、昭和23年9月に辞職する。この依頼が後に『仮面の告白』に結実する。在職わずか9カ月程度の三島であるが、大蔵省当時新潮社 決定版三島由紀夫全集 第28巻所収のことは少なからず語っている。このうち、表題の『蔵相就任の想い出−ボクは大蔵大臣』(昭和28年)は、「私がもし大蔵大臣であったなら」というテーマで書かれた4頁ほどの文章である。太宰治的なものも連想させながら、文士を「無用の長物」として、保安隊に強制入隊させるか、重税を課すべきと揶揄しているが、冒頭で、大蔵省在職中、「国民貯蓄奨励大会」での大臣講演の原稿を書く仕事を命じられ、従来の文体を「改革」しようと、以下のような原案を書いたという「想い出」を披露している。「えー、本日は皆さん、多数お集りをいただいて、関係者一同大喜びをいたしております。淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが・・・」この案は「完膚なきまでに添削が施され、原稿は原型をとどめなくなった」とのことで、上司から「あいつは文才があるというので採用してみたが、文章はトント俺のほうが巧いわい」と言われたそうである。この大蔵省時代のエピソードは三島のお気に入りのネタとなったようで、その後も随所で語っている。例えば、三島が日本語の特質や文学作品の文体・技巧等を論じた『文章読本』(昭和34年)でも、わざわざ冒頭でこの件に触れ、「ごく文学的な講演の原稿」を書いたところ、「大臣の威信を傷つける」と「根本的」に修正されたとして、次のように語っている。「その結果できた文章は、私が感心するほど名文でありました。それには口語文でありながら、なおかつ紋切型の表現の成果が輝いておりました。そこではすべてが、感情や個性的なものから離れ、心の琴線に触れるような言葉は注意深く削除され、一定の地位にある人間が不特定多数の人々に話す独特の文体で綴られていたのであります」FINANCE LIBRARY 68 ファイナンス 2024 Dec.(大臣講演原稿)蔵相就任の想い出 −ボクは大蔵大臣三島 由紀夫 著

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