ファイナンス 2024年12月号 No.709
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SPOT (当時の暦に書かれている道長直筆の「御堂関白記」の敦成親王誕生の模様。(寛弘5年)9月11日の暦に「午時平安男子産給」とある。 御堂関白記[7]- 国立国会図書館デジタルコレクション)源氏物語とその世界(中)実資が返歌を詠む羽目になったが、…『いまの御作はいたって優美で、とてもこれにふさわしい返歌は作れません。…これほどの名歌に返歌などは無用のことで、一同で繰り返し今の御作を味わったらよろしいでしょう。』この問答を聴いていた諸卿は直ちに実資の言に賛成し、一同、この望月の歌を数回吟詠した。…祝宴は道長礼賛の声の中に深夜まで続けられた」という。この歌について歌人与謝野晶子は「道長が詩人としての風懐を窺うべし」と評する。なお、道長の御堂関白記に「此日有立后宣明」とあり、その日の出来事が詳しく書かれていて、自分が和歌を詠み、人々がこれを詠唱したことが書かれているが、どんな歌かは書かれていない。源氏の君の四十歳のお祝いに髭黒の大臣の北の方となった玉鬘が子供を連れて訪れる。喜んだ源氏の君は「孫たちの行末長い寿命にあやかって わたしもながいきすることでせう」(谷崎潤一郎訳)と詠む。源氏の君は、兄、朱雀院の50才の誕生日をお祝いしようと、女君たちに準備をさせる。娘の女三宮の将来を心配した朱雀院は、源氏の君と結婚させようと申し入れ、源氏の君も受け入れる。降嫁といえば、「栄花物語全註釈」によれば、眼病で道長に退位を迫られていた三条天皇は「女二の宮を幼少のころから格別お可愛がり申し上げておられたから…『何とかこの宮のために適当な措置を取りたいもの』と思召すにつけて」、道長の息子、頼通「大将に預けてしまったものだろうか。…自分が皇位にいるのだから、大将も粗略にすることはできないだろうと御決心なさって」、道長に「お話になされると、殿は『とやかく異議をもうしあげるべきことではございません。』と謹んでお受けして」、頼通を呼びだして、『早速しかるべき用意をして…宮の許に参上すればよい』のだとおっしゃると、『良いようにお計らい下さい』とおっしゃってただお目に涙が浮かんだのは、北の方を熱愛していらっしゃるのに、御降嫁のこともまた逃れることが出来るものでもないのが、大層悲しく思われなさるからだろう」。道長は、「その様子を見て『男は妻は一人のみやは持たる。痴れの様や。』との宣わずれば、畏まりて立たせ給ひぬ。」と伝わる。その間、源氏の院と明石の君の娘、明石の中宮が六条の院に里帰りして皇子を産み、その皇子は後に東宮となる。「王朝の貴族」によると、「源氏は…天皇との関係を見ると、先帝(物語では冷泉帝)には実父であり(これは藤壺との密通による)、その后には養父、新帝には叔父にあたり、新帝の后は実子、そして東宮にはかれは祖父に当たっているという密接な立場にあった。…道長は四十代、…当時では彼が最高位の臣であり、天皇との関係はというと、一条天皇には叔父にあたり、その中宮彰子は道長の娘である。次の天皇たるべき東宮(三条天皇)にとっても叔父であり、その后はやはり娘である。そして…道長は次の東宮にとって祖父にあたる…。これほどまでに似通っていれば、紫式部が若菜の巻を書くときに、道長の姿を思い浮かべなかったということは決してありえない。」という。物語では、源氏が孫の皇子をさほど可愛がっているようには見えないが、道長は、娘で一条天皇の中宮彰子が入内から9年後に念願の皇子を産み、将来の帝の外祖父となった時、道長は「夜中にも暁にも」若宮のところに参り、若宮におしっこをかけられて直衣の紐が濡れたのをあぶりながら、「『あはれ、この宮の御しと(おしっこ)に濡るるは、うれしきわざかな。この濡れたるあぶるこそ、おもふようなるここちすれ』と、よろこばせたまふ」と、また、道長は中宮の父である「まろわろからず、まろがむすめにて宮わろくおはしまさず。母も幸いありと思ひて、笑ひたまふめり。よいおとこをもたりかしと思ひたんめり」と、幸せそうに冗談を言ったと「紫式部日記」に伝わる。(34,35) 若菜上・下「小松原すえの齢に引かれてやのべの若菜も年をつむべき」ファイナンス 2024 Dec. 55

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