ファイナンス 2024年12月号 No.709
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SPOT(藤原実資の日記「小右記」の寛仁二年十月十六日の日記。左ページ2行目から道長の日記には書かれていない「望月の歌」が書かれている。「望月の歌」が今日に伝わるのはそれ故。)小右記 三十、三十一 - 国立国会図書館デジタルコレクションで話しかけ」る。四月、内大臣は長男柏木を使いに庭先の藤の花ざかりへ夕霧を招く。夕霧が源氏の君に相談に行くと源氏は自分の衣料の中から立派な直衣に下着まで添えて賜り、『あなたはもう宰相なのだから、もっと着飾った方がいいだろう」(瀬戸内寂聴訳)と、息子に対する愛情をあまり見せない源氏の君には珍しい一場面。ここでいう「宰相」とは、「大臣・納言に次ぐ官」参議の唐名。明治維新で王政復古のときだと、太政大臣三条実美、左大臣岩倉具視、参議には西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らが名を連ねる。夕霧が「念入りに身繕いして内大臣家に行くと、…下にもおかぬおもてなし…内大臣はしきりに盃をすすめ」、『春日さす藤の裏葉のうらとけて、君し思わばわれも頼まむ』と古歌を吟じ、内大臣の長男「柏木がその意を受けて、見事な藤の花房を折ってきて、夕霧の盆に添えた。… 内大臣はおりをみて中座し、…柏木は夕霧を雲居の雁のもとに案内する」。翌朝「後朝の文が夕霧から届けられると、内大臣もそれを見て、喜んだ。…夕霧は中納言に昇進…、昔なつかしい大宮の御所、三条の宮に、雲居の雁と共に住むことになった」(円地文子訳)。「後朝の文」とは、「王朝の貴族」によると、「二人が共寝をした翌朝、例によって和歌を贈答すること」であり、「共寝の最初は、男はかならず夜に忍んで来る。翌朝男は家に帰って歌を贈り、女がこれに答える。…これを三日間続けると三日目の夜に露顕(ところあらわし)、三日の餅の式が行われる。これが正式の結婚式」だという。これが、女の一族が自家の娘に通っている男を確認する手続で、これに自分の家の食べ物を食べさせ、身内として待遇することを認める象徴的な手続きで…この式が済めば男は正式に娘の婿として認められ…堂々と居座ってよい」ことになるという。やがて、明石の姫君が入内。育ての親である紫の上が付き添い、宮中から退出する日に、実の親明石の君が交替で参内してお付添いする。娘の入内といえば、道長の長女彰子は長保五年(999)関白記」に「以酉時入内。上達部。殿上人多来。…」と簡潔に記す。この「御堂関白記」は世界最古の自筆本日記で、この時代の政権中枢における政治・経済・社会・文化などが記述された貴重な史料。道長嫡流の近衛侯爵家では「代々これを第一の重宝とし、函に収めたまま背に負ひて何時にても他に移しうる装置を施して、書庫の入り口の近くに据えられていて、火災などの事変に備えられていた」といい、多くの日記が写ししか残っていない中、道長直筆の13巻が現存するという。その秋、源氏の太政大臣は、准大上天皇の位を頂く。「そうでなくても、この世はすべて思いのままでいらしゃるのに、…。こうして何事にもことのほかに威厳をお加えになりましたので、これからは参内なさるのも御面倒なことになるだろうと、一方ではお案じなさいます。」(瀬戸内寂聴訳)。「この世はすべて思いのまま」と言えば、寛仁二年(1018)10月16日、道長は自分の娘三人を三代の帝の中宮とする。「王朝の貴族」によると、「中宮職の職員任命が終わって、一同は公卿以下そろって土御門邸の威子のもとに拝礼に行く。庭に並んで礼を行い、それから東の対に設けた席について、祝宴が始められた。集う公卿は三人の大臣以下十八人。…形のごとく盃がまわされ、しだいに人々の酔いも増すなかに、学人が召しだされて管弦が始まり、公卿・殿上人も地下の者どもも、調子を合わせて楽に興ずる。道長は冗談も言って上機嫌であったが、ふと大納言実資を招き寄せて、『歌を詠もうと思うが、貴君にもかならず一つ読んでもらいたい』と言った。実資が承知すると、…次の有名な歌を詠みあげたのである。此の世をば我世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば11月1日に一条天皇に入内。道長の日記、国宝「御堂 54 ファイナンス 2024 Dec.

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