ファイナンス 2024年12月号 No.709
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SPOT(「藤原道長の栄華や当時の朝廷と公家社会の様子を情感豊かに叙述」する「栄花物語」での道長の長女彰子の裳着の儀の模様。巻第六 かかやく藤壺「大殿の姫十二にならせ給へば、年のうちに御裳着有りて…」とある。)栄花物語[6]- 国立国会図書館デジタルコレクション「王朝の貴族」によると、「九九九年(長徳五)正月、申した宮仕えのことはいかがですか」(円地文子訳)と尋ねると、「昨日は朝曇りしてどんよりした天気でしたから、はっきりと空の光を仰ぐことはできませんでした](谷崎潤一郎訳)との返事。紫の上と相談して、ともかく玉鬘の裳着の祝いを取り行おうと決心。「御裳着の儀式」とは、「男子の成人式にあたり、十二,十三歳から、十六、十七歳ころに行われ、はじめて女子が成人の服装、髪型に移る式」という。藤原道長の娘、彰子の入内に先立つ御裳着の儀式について。…年号は長保と改められ…娘の彰子も十二歳になる。…二月九日、道長の邸では、多くの公卿・殿上人を集めて裳着の式が盛大に行われた。…大臣以下参集し、東三条院はじめ宮宮から見事な贈物が贈られ、盛宴が張られ、管弦の興があり、列座の公卿は祝賀の和歌を道長に贈った」という。源氏の君は、久し振り内大臣に会い、娘、玉鬘を預かっていることを知らせる。内大臣は、源氏の君は夕霧と娘の結婚を認めてほしいというかと思い、「源氏の君がおだやかに一言、怨みごとをはっきり口に出して下さったなら、とやかく反対することはとてもできないだろう。…源氏の大臣の言葉に従ったふりをして、二人の結婚を許そう』(瀬戸内寂聴訳)と思っていたら、意外な話に泣いて喜ぶ。帝には源氏の君を後見人とする六条の御息所の娘、秋好む中宮と、内大臣の娘、弘徽殿の女御(兄帝の生母とは別人)が既に入内しており、「玉鬘は尚侍としての宮仕えを実父の内大臣や源氏からもすすめられている。しかしどうしたものかと迷っていられる。…宮中に入っても、秋好む中宮、弘徽殿の女御にも気兼ねすることであろうと思えば、玉鬘の悩みは尽きない。…夕霧が、源氏の君のお使いとして、主上の仰せを伝えに来た。…夕霧は用事がすんでも話を長引かせ、しまいには持ってきた蘭(藤袴)の花を御簾の端からさしいれる。それをとろうとする玉鬘の袖をとらえ、歌を詠みかけた」(円地文子訳)。「あなたと同じ野にぬれる此の藤袴を、せめて少しでも可哀さうと思ってください」…「『同じ野のつゆにやつるる藤袴』とは、『あなたと同じ大宮の孫として喪服を着て濡れている私』と云うこと」」玉鬘は奥へ引き込みながら、こう答えた。「尋ぬるにはるけき野辺の露ならば うすむらさきやかごとならまし」(あなたと私は遠々しい関係でもなく、従兄弟同士の親しい関係なのですから…(これで十分親しい関係ではないでしょうか。)」(谷崎潤一郎訳)。宮中に入ってからの悩みといえば、例えば、いやがらせ。「王朝の貴族」によれば、後見の兄伊周が失脚していた一条天皇の中宮定子が懐妊して内裏を退出する際、中宮の行啓なのに指揮をすべき公卿の引き受け手がおらず、しかも、「定子の懐妊退出を喜ばない道長のいやがらせで」当日、道長は「宇治の別荘へいってしまう。…道長が遊びに出かけるから、公卿たちもぞろぞろついてゆく。」ことになったという。」いやがらせにとどまらず、命にかかわることもあるようで、道長の兄道隆の娘で中宮定子の妹、中の君は三条天皇の東宮時代に後宮東宮御所梨壺に隣接する桐壺(淑景舎)にいて東宮の寵愛を受け、「淑景舎と華やがせたまひしも」道隆の死後、「御年二十二三ばかりにて」亡くなったと「大鏡」にあるが、これも「君寵を争った他の女御側によって毒殺されたらしい」ともいう。玉鬘はいよいよ宮中に入るかと思いきや場面は一気に転換。「髭黒の右大将は、玉鬘の侍女…の手引きで、首尾よく玉鬘の閨に忍び込んで思いを遂げた。…玉鬘は五の染まなかった方と契りを結ぶことになって気が 52 ファイナンス 2024 Dec.(30) 藤袴「同じ野のつゆにやつるる藤袴あはれはかけよかごとばかりも」(31) 真木柱「今はとて宿離れぬとも馴れ来つるまきの柱はわれをわするな」

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