ファイナンス 2024年12月号 No.709
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SPOT (道長の父兼家の妻の一人、藤原道綱母による「蜻蛉日記」。最初に兼家から手紙が来て手紙のやり取りを始める場面)蜻蛉日記 3巻[1]- 国立国会図書館デジタルコレクション源氏物語とその世界(中)る」という。あいにく、4,500坪の家に住んだり、庭の池に船を浮かべたりしたことがまだないので、どんなものがよくわからないが、「二町四方、つまり二万坪(約六万六〇〇〇平方メートル)に近い広大なものもあった」というから、六条の院はそのサイズ。なお、道長の土御門邸は「南北に二町を占めていた」という。紫の上の下で育てられている明石の姫君のもとに、広い六条の院の別の御殿に住む実母、明石の君から贈り物が届き、「あなたの大きうおなりになるのを見たさに引かれて長い年月を待ち焦がれて暮らしているこの年寄りに今日は鶯の初音(あなたのお声、お便り)を聞かせてください」(谷崎潤一郎訳)という歌が添えられていて、源氏の君は姫君に返歌を書かせる。源氏の君は、順に別々の建物に住んでいる女君たちを訪れ、年の始めの夜を明石の君の元で過ごすと、紫の上の機嫌が悪いのを狸寝入りでスルーする。夫が他の女性のところに行ったときについては、道長の父、兼家の妻の一人で、当時、本朝第一美人三人のうちの一人だったという藤原道綱母の「蜻蛉日記」。日記というと誰にも見せないものかと思うと、「宮廷生活の歴史を、藤原氏全盛の有様を中心に、裏話や人物批判などをまじえて叙述」する「大鏡」によると、彼女は「きわめたる和歌の上手におはしければ、」兼家「殿の通わせたまひけるほどの事、歌など書き集めて、『かげろふの日記』と名付けて、世に弘めたまへり」とあるから、もともと読んでもらうために書かれたようだ。「王朝の貴族」によると「…八月の末ごろに、子供が生まれた。…ところが間もなく、兼家の外出中にふと箱をあけると、中に兼家がどこかの女にやろうとして書いた手紙が入っていた。さてはと思っていると、十月ごろ、三晩もまったく姿を見せない日があったり…兼家が姿を見せたが、これからどうしても参内しなくては」といって出ていったから、こっそり人に後をつけさせたらば、「町の小路…のどこそこにお泊りになりました」と報告してきた。やはり始まったなと思ったがどうしようもないままに、二、三日して夜明けに門をたたく音がしたが、放っておいたら、例の女のところに行ってしまったらしい。夜がすっかり明けてから、『嘆きつつひとりぬる夜のあくるまは いかにひさしきものとかはしる』という歌をうるわしく書き、盛りを過ぎて散りぎわの菊に結び付けて手紙をやった。」という。この歌は百人一首に残る有名な歌。これに限らず、「蜻蛉日記」には、兼家を待つ思いが切々と描かれていて、そんなに逢いたいのならこちらから行けばいいのではと思うのは今の感覚で、当時の感覚では女性が男性を訪れることは異常な状況らしく、ある時、兼家が病気になったときに、家に呼ばれたことが書かれているが、異常なこと故、人目につかないように兼家に夜に車を手配させたという。六条の院の春。源氏の君が池に唐風の船を浮かべる日には、親王たちや上達部が大勢やってくる。夜もすがら管弦の遊びをした翌日。秋好む中宮(六条の御息所の娘)の法会に紫の上からの「花園に飛ぶ此の美しい胡蝶をさへ、ひそかに秋を待ちたまふ君はつまらないものと御覧あそばすのでしょう」という歌が届き、中宮は「こてふにも誘われなまし心ありて八重やまぶきをへだてざりせば」(そちらで幾重もの山のあなたへ私を遠ざけようと云う心がないのであれば、私もお言葉に従い、胡蝶に誘われてそちらに参ってみたいものですが)(谷崎潤一郎訳)と返す。源氏の君は、右大臣と夕顔との娘、玉鬘を自分の娘として六条の屋敷に住まわせ、寄せられる沢山の恋文をみて面白がって批評したり、人物評をしたりする。恋文が届けられるとどうなるか。「王朝の貴族」によると道長の父、兼家の結婚の場合、「兼家の歌を受(24) 胡蝶「はなぞのの胡蝶をさへや下草に 秋まつむしはうとく見るらん」ファイナンス 2024 Dec. 49

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