SPOT冒頭に「敵を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」と述べたが、まずは「己を知」らなければならないということである。なお、文化の違いという点では、議論においておよそ相手への気配りを行わないアメリカ人も、日頃の交際では人間関係の保持に努めている点には留意が必要だ。日本では職場でたわいもない世間話ばかりしていると怪訝な顔をされるが、米国では隙あらばみんな廊下やエレベーターホールで話している*21。これは、かつて筆者が米国に留学した際にも感じたことだ。ドライな議論をする米国人は、日常生活では常に言語でのウェットな接触を心がけているのだ。ただ、そのようなウェットな会話は、多くの日本人には異質なものだ。それは、日本語が「世間」での相手との間合いを図るのに言語だけでなく表情やしぐさによるコミュニケーションも大切にする言語だからだろう。もっぱら言語に頼るリモートオフィスだけでは、職場の人間関係がうまく築けないのが日本人なのだ。ここから、IT社会における日本語の潜在力について考えてみることとしたい。日本人は、個人としては発想の異なるインベンションが得意だが、集団としてはイノベーションを起こすのが不得意だと言われる。前者については、数学者の小平邦彦氏が「日本語はあいまいだから、数学を創るには有利だ」としていたことが思い起こされる*22。数学者としては、江戸時代の関孝和や大正から昭和にかけて活躍した岡潔などがすぐに思いつく*23。ダーウィンの競争的進化論に対して、独創的な「棲み分け」による共生的進化論を唱えた今西錦司なども思い浮かぶ*24。後者のイノベーションを起こすのが不得意だという点に関して最近言われるのは、狭い「世間」に閉じこもる日本人が外の人の受け入れに消極的で移民を受け入れないということだ。かつては、3人寄れば文殊の知恵と言われていたが、それは3人寄るのが身近なまっても衆愚の知恵にしかならないと指摘されたりもしている*25。ただ、日本語の「世間」は、前回述べたように固定的なものではない。学校に入れば新しい「世間」が待っているし、会社に入っても新しい「世間」が待っている。「世間」は、固定的なものではなく多様なものになりうるのだ。戦後の日本では、ホンダやソニーといった企業に様々な人材が集い、新たなイノベーションで世界をリードしていた。それがバブル崩壊後、人材までをもコストとみる守りの経営になって、イノベーションを起こす人材を生かせなくなってしまっているだけではなかろうか。また、何でもROE(自己資本利益率)といった数字で管理しようとする「米国流」のガバナンス理論が一世を風靡してしまって企業経営が短期志向の弊害に陥って人材を生かせなくなっているだけではなかろうか。米国人だって、そんなガバナンス理論ばかりで企業経営を行っているわけではない。ベンチャー企業が、そんな企業経営から生まれてくるはずもない。グーグルにしてもアマゾンにしても、そんな経営で成長してきたのではない。最近では、日本でも東京大学が民間企業との協力の下にアントプレナーシップのための講座を始めるなどの新しい動きが出てきている。日本が、日本の人材を生かしてイノベーションの能力を再び発揮し始める日も近いと信じたい。筆者は、「うそ」を得意とし想像の飛躍が豊富な日本語は、これからの人工知能の時代にその潜在力を大いに発揮できる言語だと考えている。言葉は人間がものを考える基盤だが、言語を超えた世界とも親和性のあるのが日本語だ。言語による認識の限界を認知し、不立文字、空、唯識といったことを当然のこととしてきた。こんな言語は、世界中探しても日本語以外にはない。学問は、言葉を超えたイメージとの間の振り子運動によって新しい概念を獲得することによって進歩すると言われる。数学で抽象的なことを考える時は、言葉とイメージとの間を行ったり来たりと往復運動、振り子運動をするのだという*26。それは日本語が、同音異義語との間を行ったり来たりし、創造の飛躍を行「世間」だったからで、最近のネット空間では何人集 44 ファイナンス 2024 Dec.IT社会における日本語の潜在力*21) 松谷真人、ファイナンス、July,2023、p61*22) 「矢野雅文の述語的科学論」矢野雅文、iichiko、2018、p71*23) 文芸春秋、2023・8,p110−125*24) 矢野雅文、2018、p49*25) 「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」金間大介、東洋経済新報社、2022、pp221−3*26) 「世にも美しい日本語入門」安野光雅、藤原正彦、ちくまプリマ―新書、2006、p13
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