ファイナンス 2024年12月号 No.709
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る*5。日本語は、大まかな状況の中で常に相手の考えSPOT 日本語と日本人(第9回)*4) 「完本 日本語のために」丸谷才一、新潮文庫、2011,p133*5) 「日本語が消滅する」山口仲美、幻冬舎、2023,p132*6) 「戦後レジームからの脱却を」久保田勇夫、産経新聞出版、2024、p41*7) 加賀野井秀一、2024、p57―59。「過剰可視化社会」与那覇潤、PHP新書、2022,p57。CでもDでもあって」という理由をひとまず誰もが聞かなければならない*4。それで最後に「とどのつまりⅩです」と言われたら、「なるほど、ここまで網羅的に見てきた結果Ⅹなんだから、異論はないよ」となったり、「いや、Dのところにちょっと問題があるのではないか」ということで部分調整が行われたりして、不毛な自己主張の応酬よりはるかに効率よく建設的な議論が戦かわされることになる。英語の議論では、「AはⅩである」と言ったところで勝負をつけようとするので、結論はそれが正しいか誤っているかの二つに一つしかない。しかしながら、世の中には二つに一つと割り切れないことがたくさんある。となると、日本語の議論のように、ともに探索し、帰納し、協調し、徐々に不確かなものから確かな結論を導き出していく方が、実は、はるかに「発見的」であり「創造的」になる。その方が参加者全員に網羅的な発言の機会を与えて建設的な議論を行えるのだという。加賀野井氏によると、主語制の英語による思考の道筋は、「主語-述語」が緊密に結びつく固い核が中心になって、それが関係代名詞や理由を述べる接続詞などによって敷衍されながら広がり、因果的・論理的に展開していく。小さなカテゴリーから大きなカテゴリーヘと広がっていく「ズームアウト」のスタイルだという。それに対して主語を使わない日本語では、まずは主題の提示によって大まかな状況のようなものが描かれ始め、次第にそれが明確化され限定されながら、ついには述語の中へと収赦していく。大きなカテゴリーから小さなカテゴリーヘと絞りこんでいく「ズームイン」のスタイルだという。今日の国際的な議論の場では、単刀直入な「ズームアウト」の英語が、圧倒的に優位な地位を占めてい方や立ち位置に気を配って臨機応変に自らの主張のニュアンスを変えたりするので、単刀直入な「ズームアウト」の議論に負けてしまうのだ。しかしながら、それでグローバル・サウスの国々が納得しているかというと、そうは思われない。むしろ、英語の議論にうさん臭さを感じている。英語の議論は、時として大きくぶれもするからだ。例えば、地球環境問題に関して言えば、米国はオバマ大統領の時代には熱心だったが、トランプ大統領になるとほとんど関心を失ってしまった。財務省の先輩の久保田勇夫氏はその著書の中で、欧州諸国との米州開発銀行の増資交渉において、「条約とは一遍の紙切れに過ぎない」というかつてのヒトラーが述べた思想が健在であることを知ったと述べている*6。所詮、冷徹な国際関係とはそんなものだと言ってしまえばそれまでだが、そうであればあるほど英語の「ズームアウト」の議論にうさん臭さを感じる国が増えていくだろう。国際関係が錯綜し、西欧諸国とグローバル・サウスの国々の利害対立が目立つようになっている今日においては、日本語の議論への期待が高まっていく素地があるはずだ。日本語の議論の特徴は、相手との心理的な距離をうまくコントロールし、相手と感情を共有する構造を創り上げながら議論を集約させていくところにある。多様な民族の様々な利害が錯綜する国際社会で、各国が協調してよりよい関係を創り上げていくために求められている議論と言えよう。では、具体的にどうしたらいいのか。相手が「ズームアウト」の議論でくる場合には、こちらも同様の手法で対応し、無理難題の主張に対しては日本語なら当たり前の思いやりなどは控えて正面から冷静に反論するといったことを繰り返して負けないようにする*7。他方で、そうでない国々に対しては日本流での対応を行う。そうしながら、全体の議論を大まかな状況から入って具体的な問題点を詰めていく「ズームイン」の手法でまとめていくようにするのだ。そのように言うと、そんな手法はグローバル・サウスの国々には受け入れられても、欧米諸国には受け入れられるはずがないと言われそうだ。筆者も、かつてはそう思っていた。しかしながら、「日本の感性が世界を変える」という本の中で鈴木孝夫氏が、日本語を学んだフランス人が「私が私を主張しないことは最初グローバル・サウスの国々の納得を得ていない英語の議論ファイナンス 2024 Dec. 41

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