ファイナンス 2024年12月号 No.709
44/110

SPOT*1) 「若き数学者のアメリカ」藤原正彦、新潮社、2003,p210*2) 「感情的な日本語」加賀野井秀一、教育評論社、2024、p216−221*3) 加賀野井氏は、そのような話し方の例として結婚式のスピーチを挙げている前回、西欧語の流入とIT化で揺らいでいる日本語について述べた。そして、国際社会でおよそ英語に太刀打ちできていないことを述べた。ただ、必ずしも英語の議論が、今日、グローバル・サウスの国々に受け入れられているわけではない。また、IT社会においては、実は、想像の飛躍を得意とする日本語に活躍の場があるとも考えられる。そんなことを述べて、主語を使わない日本語の話を最終回としたい。日本語の議論が英語の議論に太刀打ちできない例として、数学者の藤原正彦氏が「若き数学者のアメリカ」という本の中で次のようなエピソードを紹介している。それによると、米国人はとにかく自分の意見を述べることを優先する。当方が、何か独創的なことを言うと「それは面白い見方ではあるが、あなたは数少ない現象から不当に普遍的な結論を導いている」と言うし、どこかで聞いた覚えのある意見を述べると「それは平均的かつ陳腐であり、時代錯誤でさえある」などと言う。といって相手の意見に斬新さもない。こちらの論理的飛躍を指摘する巧さだけが目に映ってくる。そこでこちらも少しずつ焦ったり興奮してきて、ついにはボロを出したり支離滅裂なことを口走ってしまい、それをまた攻撃されるという具合で、たいていの場合は降参してしまう羽目になるというのだ*1。しかしながら、そのような英語の議論が日本語の議論より優れているかとなると、必ずしもそうとは言えない。以下は「感情的な日本語」*2という本の中で加賀野井修一氏が述べていることだ。同氏は先ず、日本語の議論には「結論が文末にくるので、何を言いたいのか分かりにくい」「結論まで行かずに話が拡散してしまう」*3といった問題点があるという。それに対して、英語では最初からはっきりと「AはⅩである」という結論が示される。そしてその結論に至る理由がつぎつぎに敷衍されていく。つまり、「AはⅩである。何故ならば、Bであり、Cであり、Dであるからだ」という形を取る。単刀直入に結論が示されるので、相手の意図は一目瞭然でスカッとした感じになり、モヤモヤ感の抜けない日本語がいかにも見劣りしてしまう。ただ、そのような英語の議論が本当に優れているのかというと疑問だ。すなわち、最初からはっきりと「AはⅩである」という結論が示されるのはいいのだが、そうするとその時点で、「AはYだ」「AはZだ」と考えている人たちからはいっせいに反論が出されることになる。もちろん、発言者の「何故ならば」以降もじっくり聞いたあげくの反論ならいいのだが、多くの場合はそうではなく、それを聞かぬままに、てんでに自説を叫び始める。加賀野井氏がかつてパリに住んでいた頃、名だたる思想家たちが意見を戦わせる「アポストロフ」というテレビ討論番組を楽しみに見ていたそうだが、そこでもかなりの頻度で、こうした不毛なやりとりに出会ったという。一見、熱気にあふれ、さも活発な議論がかわされているかのようだが、その実、相手の言い分をきちんと聞かないままに、話は堂々巡りをくり返すことがしばしばだったという。それに対して日本語の議論では、文末にならないと、肯定か否定か、平叙文か疑問文か、断定か推定か、命令か感嘆かといったことが分からない。そこで「Aは」と言うと、みんな固唾をのんで次の言葉を待つ。そして最初に結論をもってこないので、「Bでも 40 ファイナンス 2024 Dec.英語の議論と日本語の議論国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇日本語と日本人(第9回)―グローバル化時代の日本語(最終回)―

元のページ  ../index.html#44

このブックを見る