SPOT 津田尊弘課長に聞く、国際金融と経済協力(プラス・スリー)」というのは日本、中国、韓国の3ヵ国のことで、ASEANの10カ国にこれら3カ国をプラスした国際協調の仕組みのことをこう呼んでいます。この枠組は、1997年のアジア通貨危機後に出来上がったのですが、海外からのドルの借入への過度の依存から脱却すべく、チェンマイ・イニシアティブのように危機時にドルを融通する仕組を構築するほか、普段から自国の通貨(タイであればバーツ、インドネシアであればルピア)で借り入れることができる市場を作る必要性が認識され、アジア債券市場育成イニシアティブというものが立ち上がりました。私が担当したのはそちらになります。調査課に2年間在籍した後、国際機構課というG7/G20を担当する課で、2016年のG7議長国としての業務を担当し、日本議長国としてどういうメッセージを打ち出せるか等を検討しました。「伊勢志摩サミット」が開かれた年というとご記憶の方も多いかもしれません。現地で外務省はじめ関係者の方と調整を続けたのはいい思い出です。直近のキャリアを振り返ると、今回のテーマである経済開発の仕事が中心になっています。今の仕事の前は3年間、ワシントンDCで(DC赴任はIMFの時に続き2回目になります)、世界銀行の日本理事室で理事代理をしていました。理事室というと理解しにくいかもしれませんが、理事会の原語が「Board of Directors」であると言うと、ピンとくる人もいるかもしれません。そう、これは会社でいう取締役会と同じ原語なんですね。もちろんその役割は民間会社とは大きく異なりますが、日本財務省からの副代表として、世銀の経営方針等について承認する議論に参画しました。具体的には、気候変動のようなグローバルな課題の解決に世銀がどう貢献していくか、コロナ危機後の貧困や不平等の拡大にどう対処するか、各国の基幹インフラをどう整備していくべきか、等々、中長期の戦略の話に貢献したり、個別プロジェクトの融資案件の承認などを担当したりしました。昨年(2023年)の夏に帰国し、現在は、世界銀行、アジア開発銀行等の、国際開発金融機関、英語でいうMultilateral Development Banks(MDBs)を所管するユニットのヘッドである開発機関課長をしています。具体的には、世界全体あるいは地域でのメンバーシップを有する国際機関の中で、日本が株主としてどのような政策をうち出していくか、他の株主とどう協調していくのか、また、クライアント国と呼ばれる融資先の国々のニーズをどううまく吸い上げて、MDBsのビジネスモデルをどう進化させていくか、などの議論に参画しています。学生:IMFには希望されて行かれたのでしょうか。津田:はい、希望しました。IMFに行った時は、2008年にリーマン・ショックが起きて、その後ギリシャを中心に欧州の債務危機も続いて金融市場の緊張感がすごい高い時期でした。私はIMFに行く前は法務省で国際マネーロンダリング対策を整備する仕事をしていて、それこそ月1回ほど海外出張に行くような機会もあり、やりがいも感じておりましたが、やはり世界の金融市場がどう動いているのか、そしてその中で日本をどうしていくのかということに興味が沸々と湧いてきて手を挙げました。服部:入省時から国際系を希望されたというわけではないのですね。津田:それは全然違いました。財政や国際金融などの政策の細かな中身に深く理解があったというより、財務省の役割は予算を編成することで、批判される立場であるものの、誰かがやらなければならない仕事ですよね。その精神論みたいなのにすごく憧れました。最初に入ったセクションが国内調整のとりまとめのようなところだったこともあり、新人のころは今後もそういう仕事をしていくんだろうなという気持ちが漠然とあったのは事実です。けれども留学先で鼻をポキンと折られたというか、自分が得意だと思っていた英語もうまく伝わらないし、結構苦労したんですね。そこから毎日勉強したら、英語も伸びてきて、結構肌にあっているなという実感を得たのがきっかけですかね。また、留学したときはリーマン・ショック前だったので、金融がブームの時でもあり、ダイナミックな金融の世界で活躍したいという思いもだんだん強くなってきましたね。学生:留学の経験は大きかったのですね。何を勉強されたのでしょうか。津田:大きかったです。1年目はイギリスのケンブリッジ大学で法律の修士を取得して、そのときは会社法、銀行法、租税を中心に勉強しました。日本とイギリスの租税法の比較や、租税と社会保障に関する卒論ファイナンス 2024 Dec. 11
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