ファイナンス 2024年11月号 No.708
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図3 明石デパートと現在の「らぽす」(出所)左は『工事画報』昭和27年版,大林組,1952.国立国会図書館デジタルコレクション。右は令和6年10月12日に筆者撮影 70 ファイナンス 2024 Nov.明石駅前の盛衰戦後、昭和31年(1956)の路線価図によれば、この年すでに駅前が最高路線価地点だった。坪当たり6万円で、西本町の3万円の2倍の水準となっていた。昭和47年(1972)の最高路線価地点名は「国鉄明石駅前第2玉錦パチンコ店前」である。店は駅前通りの東面で、道路向かい側の角に神戸銀行があった。駅前は戦災に加え、昭和24年(1949)の大火に見舞われた。復興の一環で完成したのが同年5月に誕生した幅30mの駅前通り、通称「明石銀座」である。当時の国鉄明石駅の正面から延びるシンボルロードだった。このとき西本町の明石駅が廃止されている。この頃、西本町から国鉄駅前に街の重心が移ったと考えられる。地域一番行の五十六銀行は昭和7年(1932)に本店を東に移し東本町に行舎を新築した。一本化した路線は昭和8年(1933)に宇田川電気から分離独立して山陽電気鉄道(山陽電車)となった。明石初の「百貨店」は昭和26年(1951)に開店した鉄筋5階建の明石デパートである。商工会議所が「明石商工会館」を建設し3階以下を百貨店とする計画だった。営業の主体はテナントで構成する明石商業協働組合で、集合店舗だが厳密には百貨店ではない。現在の「らぽす」で建物が現存する(図3)。昭和39年(1964)、国鉄明石駅が高架化され、それに伴って「明石ステーションデパート」ができた。昭和41年(1966)にはダイエーが開店。その2年後にはジャスコの前身の1つ、フタギが開店した。この頃が駅前商業の全盛期である。明石海峡大橋で変わった四国の玄関口他方、戦前の中心地だった西本町だが、国道2号による分断もあって、駅前からの人の流れを取り込めずにいた。東本町にあった神戸銀行も昭和40年頃に駅前へ移転している。水運から鉄道に交通手段の主力は移ったとはいえ、西本町の港から旅客船で、あるいは国道28号からフェリーで淡路島に渡るルートは存続していた。ただ、それも明石海峡大橋の完成で大きく変わった。昭和61年(1986)に着工し、平成10年(1998)4月に開通した。全長3,911mで、令和4年にトルコのダーダネルス海峡に架けられた1915チャナッカレ橋が完成するまで世界最長のつり橋だった。明石海峡大橋は神戸市の神戸西ICから徳島県鳴門市の平成3年(1991)には山陽電車の高架化が完成。山陽明石駅が国鉄改めJR明石駅と隣接する場所に後退し、旧駅の跡地が駅前広場となった。商業の郊外化が始まった時期でもある。郊外大型店の出店の動きに駅前商業は影響を受けていた。平成2年(1990)、ダイエーはディスカウント業態の郊外大型店、ハイパーマート二見店を出店した。同じ年、駅前のジャスコはファッションビル業態のフォーラスに転換していた。もっともハイパーマート事業は失敗に終わり、カルフール明石、イオンタウン明石を経て解体された。駅前では、山陽電車の旧線跡地の再開発が進んでいた。再開発ビルには大丸百貨店が出店する予定だったが、平成7年(1995)に辞退となる。再開発ビルは平成13年(2001)に完成。現在のアスピア明石である。平成9年(1997)にマイカル明石が開店。翌年に明石フォーラスが閉店している。マイカル明石はその後の再編でイオン明石ショッピングセンターとなり、核店舗もサティ明石からイオン明石店となった。平成16年(2004)、イトーヨーカドーを核店舗とする山陽西二見ショッピングセンターがオープンする。その翌年には駅前のダイエーが閉店した。これで明石の中心街から全国チェーンの大型店はなくなった。

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