図1 最近の魚の棚(出所)令和6年8月23日に筆者撮影275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,510C1,520C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D海峡の拠点都市から住まう街の成功例となるまで海峡の拠点都市から住まう街の成功例となるまで 68 ファイナンス 2024 Nov.魚の街、四国への玄関口として東経135度、日本標準時子午線上にある明石は、元和3年(1617)に着任した小笠原忠政を初代藩主とする明石藩の城下町でもある。8代藩主の松平直明以降越前松平家が治め、17代で廃藩置県を迎えた。古来、明石は淡路島を経由して四国に向かう玄関口だった。後継の国道28号線は神戸に発し、淡路島を縦断して徳島に至る幹線道路である。本州部分の終点が明石の錦江橋南詰にあり、明石海峡大橋の開通前はここから旧日本道路公団のフェリーボートに連絡し、淡路島の岩屋港まで国道の海上区間となっていた。明石海峡に揉まれた明石鯛や明石ダコが揚がる魚の街でもある。「昼ひる網あみ」の鮮魚が店先に並ぶ魚うおんたなの棚商店街が有名だ(図1)。最近は飲食店も増えてきたが、明石で水揚げされた鮮魚や練り製品、乾物を扱う店が集まっている。昼網とは、明石港にある明石市地方卸売市場の水産物分場で開かれる日中のセリで揚がった魚介をいう。ここで競り落とされた鮮魚やタコが店頭に並ぶ。魚の棚は、城下町が造成された頃から存在した東ひがし魚うお町まちと重なる。文字通り鮮魚店が集まっていた町で、当時も魚介の取引が行われていた。現在はマルハニチロとなったマルハのルーツが東魚町にある。江戸時代後期、東魚町に林はやし兼かねを称した魚商があった。事業主の林屋兼松を略したものだ。屋号の「林屋」は約3km西の林崎漁港の出身であることにちなむ。“は”を丸で囲む“マルハ”の商標は林兼の“は”に由来する。出自は魚商だったが明治に入り仲買業に進出。明石を中心とする産地市場で魚介を買い付け、大阪の消費地市場に出荷していた。当時の仲買業は自前の物流を持ち、艪を漕いで進む押おしおくりぶね送船が使われていた。転機は林兼3代目の中部幾次郎の代に訪れ、押送船を汽船で曳航することを思いついた。林兼は鮮度の面で優位に立ち、後の大洋漁業に成長する足掛かりをつかむ。その後、明治37年(1904)、朝鮮沿岸へ集荷の範囲を拡大するため下関に本拠を移した。その後も明石中学校(現・県立明石高校)の建設費の半額を寄付するなど故郷に貢献。明石城大手門の傍らにある銅像は昭和3年(1928)に建立されたものである。城下町を東西に貫く西国街道に沿って東と西の本町があった。そのうち西本町には淡路島行きの船が発着する明石港があった。明石城の大手門に通じる南北軸との交点でもある。町人地に由来する当時の街の中心地といえる西本町には明石で初めての銀行もあった。明治11年(1878)に米沢長衛が立ち上げた第五十六船の発着地だった西本町大正8年(1919)に市制が施行された。その翌年の兵庫県統計書によれば当時の最高地価は西本ほん町まちにあった。路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史第57回 兵庫県明石市第57回 兵庫県明石市
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