(紫式部日記によると、ある晩、道長が紫式部の部屋の戸をたたいたが、紫式部は戸を開けなかったという。出典:紫式部日記絵巻)紫式部日記絵巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)(20) 朝顔「見し折の露わすられぬあさがほのはなのさかりは過ぎやしぬらむ」(21) 乙女「乙女子も神さびぬらし天つ袖 ふるき世の友よはひへぬれば」 56 ファイナンス 2024 Nov.そのころ、源氏の君の舅である太政大臣、藤壺の后の尼宮が相次いで亡くなる。源氏の君は「夕日の峰にたなびいているあの薄雲のあの色は、悲しんでいる私の喪服の袖の色に似せているのであらうか」(谷崎潤一郎訳)と詠む。母藤壺の尼宮の法要が済み、心細い気持ちの帝(源氏の君の子)は、亡き母、藤壺に祈祷を頼まれていた尊い僧都から出生の秘密を聞く。「あまりにも意外で、とてもあり得ないような浅ましいことなので、帝は恐ろしくも悲しくも、さまざまに心が御乱れになりました。」。そして、「源氏の君を太政大臣に御就任させるよう御内定されたついでに、帝はかねてお考えの御譲位のことを、源氏の君にお漏らしになられました。君は目も上げられないほど恥ずかしく、この上なく恐ろしく思われて、そんなことは断じてなさるべきことではないと奏上して、御辞退申し上げました。」(瀬戸内寂聴訳)「天皇と摂政関白」によると、太政大臣とは「『職員令』(各官司の定員や職務を定めた律令の一篇)に、「…(天皇の師範となる)、…(天下の人々の模範となる)。…(政治の姿勢を正す)。…(天地自然の運航を穏やかにする)。…(適任者がいなければ欠員のままにしておく)」と規定されている」という特別な職。長く権力を握っていた藤原道長も、太政大臣になったのは息子頼通に摂政を譲る直前の1017年〈寛仁元〉になってから。源氏の君が長く思いを寄せていた朝顔の齋院が父(源氏の君の叔父)の服喪で齋院を下り、叔母と一緒に住んでいる。叔母の「見舞いにかこつけて」(瀬戸内寂聴訳)訪れる源氏の君にも朝顔の齋院はなびかず、「以前お見掛けした折のお美しさが、今だに少しも忘れられませぬが、でも朝顔の花の盛りも暫くの間のことですから、今のうちにお目にかからないと盛りを過ぎてしまふでせうか」と詠むと、「秋はてて露のまがきにむすぼほれあるかなきかにうつるあさがほ」(秋も暮れて霧のたちこめる垣根にからみつきながら、あるかなきかに色あせている朝顔の花―それが私でございます)(谷崎潤一郎訳)「との返歌。なびかぬと言えば、「紫式部日記」によると、ある晩、「戸をたたく人ありと聞けど、おそろしさに、音もせであかしたる」(返事もせずに夜を明かした翌日)道長から「昨夜は、水鶏にもまして泣く泣く真木の戸口で夜通したたきあぐねたことだ」との歌が届き、「ただ事ではあるまいと思われるほどに戸を叩く水鶏なのに、戸を開けては、どんな悔しい思いをしたことでしょう」との返し。また、道長が「浮気者という評判が立っているので、そなたを見る人で口説かずに済ます人はあるまいな」と詠むと、紫式部は「人に未だ口説かれたこともありませんのに、誰がこのように浮気者だなんて評判を立てたのでしょう」と返したという。源氏の君と亡き葵上の子、夕霧が十二歳で元服すると源氏の君は夕霧を殿上人でない六位とする。その祖母が心外だというと、「名門の子として生まれ、…世間の権勢の中で得意になって威張るのに馴れますと…、時世におもねる世間の人々が、内心では馬鹿にしながら、表面では追従して…いいなりに従うものです。…時勢が移り変わり、頼りにする人々にも先立たれて、運勢も落ち目になってしまった果てには、…もう寄りすがるものもない惨めな有様になってしまいます。…将来、国家の重鎮となるための教養を身に着けておきましたなら、わたくしの死後も心配なかろうと思」(瀬戸内寂聴訳)ってと説明する。「王朝の貴族」によると、「皇族や摂関家の子弟は元
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