(現在、「松風」の舞台の辺りにある桂離宮。「庭園には『源氏物語』の叙景を取り入れようとした」という。宮内庁京都事務所提供)古書院 - 桂離宮(kunaicho.go.jp)源氏物語とその世界(上) ファイナンス 2024 Nov. 55(17)絵合(18) 松風「身をかへてひとり帰れる山里に ききしに似たるまつかぜぞ吹く」(19) 薄雲「入日さす峰にたなびくうす雲は ものおもふ袖に色やまがへる」上総・常陸・上野といった国では、親王が長官(守)となったから、介が代わりに国司となったというが、国司にも格がある。「王朝の貴族」によると「九九六年(長徳二)正月二十五日の定例異動の発表で、源国盛が越前守に任ぜられた。…越前国は大国で、格が良い」。紫式部の父、藤原為時は「淡路守と発表された。淡路国は…四等級ある中で、最下級の下国…。為時はまったく失望して、詩を作って、後宮の女房に頼んで一条天皇のお目にかけた。…天皇はすっかり心を打たれたが、すでに決定済みのものをしいて変更することもできず、気の毒なと思うあまりに、食欲もなく引きこもって涙を流した」という。「このとき、…天皇の様子を知った…右大臣藤原道長」は、「事情を知ると直ちに国盛を召し出して、強引に越前守の辞表を書かせ…国守の代わりに為時を越前守に任ずると改めて公表された…。為時が待望の越前守を得たのは全くその詩才の徳であった。…被害を被ったのは国盛である。…かれはそのまま病みついて、秋に播磨守に任ずるという命令を受けたのもすでに遅く、病死してしまった」という。源氏の君は、亡き恋人六条御息所の娘、前斎宮を兄の朱雀院が恋していると知りつつ、9歳年下の帝に生母藤壺の尼君と相談して入内させる。帝には、権中納言(かつての頭の中将)の娘、弘徽殿の女御がいるから、前斎宮が後から参内して、競い合う形。年の近い弘徽殿の女御と過ごすのが長いが、絵が好きな帝は絵が上手い前斎宮と過ごすことが多くなる。源氏の君と権中納言の双方の後見が帝の寵愛を競って絵を届け、帝の前での「絵合」でいずれが優れた絵を集めたかを競う。年下の帝への入内といえば、既に一条天皇、三条天皇にそれぞれ娘の彰子、妍子を中宮としていた道長は、孫の後一条天皇にその叔母で9歳年長の娘威子を入内させて、一家三后を実現させている。源氏の君は、「幼い姫君があんな田舎に寂しくお暮らしになるのを、後の世にまで人の噂に言い伝えられたら、母君の身分があんまり高くないのに加えて、なおさら外聞の悪いことだろう」(瀬戸内寂聴訳)と考えて明石の君を都に呼ぶが、すぐには応じない。親たちは、桂川のほとりに山荘を持っていたのを思い出し、入道を遺して、その妻、明石の君の母子とで移り住む。入道の妻は「出家姿になって、夫に別かれてひとり帰ってきたこの山里に あの明石の浦で聞いていたのと同じやうな松風が吹いている」(谷崎潤一郎訳」と詠む。源氏の君は、幼い娘を「あなたが引き取って、ここで育ててくださいますか。」と紫の上に頼み、子供もいない紫の上は御自分で養育してみたいと考える。松風の舞台は今の桂離宮のある辺り。宮内庁のWebsiteによると、「この周辺の地は、古くから貴族の別荘が営まれ、藤原道長の桂山荘があった場所…月の名所として和歌の題材に数多く用いられ、『源氏物語』にここを舞台とした「桂殿」が登場…。その後、道長を祖先とする近衛家の荘園」があったという。源氏の君は明石の君との娘を引き取って紫の上に育てさせたいというが、明石の君は子供を取られたら源氏の君に見向きもされなくなるのではと恐れる。母から「この源氏の君にしても、世に二人といない素晴らしいお方なのに、臣下の御身分なのは、母方の御祖父の故大納言が今一段地位が高くなかったために、更衣腹などと人から言われた弱みがおありになったのが原因だったのでしょう。…身分相応に、父親からも一応大切に可愛がられれた子こそ、そのまま世間からもかるく見られない始まりになるのです。」(瀬戸内寂聴訳)と言われて、娘を紫の上に委ねる。
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