ファイナンス 2024年11月号 No.708
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(明石の君は、船上から源氏の君の行列を見て、身分の差を見せつけられる。「平安文学、いとをかし―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」展で公開されている「国宝 俵屋宗達 源氏物語関屋澪標図屛風のうち澪標図」 江戸時代、寛永8年(1631)静嘉堂文庫美術館蔵)(源氏の君が■坂の関で常陸の介の妻となっていた空蝉に出■う。「平安文学、いとをかし―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」展で公開されている「国宝 俵屋宗達 源氏物語関屋澪標図屛風のうち関屋図」 江戸時代、寛永8年(1631)静嘉堂文庫美術館蔵)(15) ■生「訪ねても我こそ訪はめみちもなく ふかき■のもとのこころを」(16) 関屋「■坂の関やいかなる関なれば しげき■きのなかをわくらむ」 54 ファイナンス 2024 Nov.明石の君が来ていたと聞いた源氏の君は、「みをつくし恋ふるしるしにここ迄もめぐりあひける縁はふかしな」(身を盡して恋慕ふ甲斐があって、此難波江に来てまでも廻り遭ふたとは宿縁のふかいことよ)を贈ると、「数ならぬ私は何事につけても甲斐ないものでございますのに、なぜ身を盡してあなた様を思ひ初めたことでございませう」(谷崎潤一郎訳)という返歌。占いよると、源氏の君の「『御子は三人で、帝、后かならず揃ってご誕生になるでしょう。そのうち最も運勢の劣る子は、太政大臣になって人臣最高の位を極めましょう』と聞き、源氏の君は『将来畏れ多い皇后の位にもつくべき人が、あんな辺鄙な片田舎で生まれたというのでは、いたわしくも、もったいなくもあることだ。いましばらくしてから、せひ都へお迎えしなければ』(瀬戸内寂聴訳)と考える。当時の上流貴族は、娘を入内させるために大切に育てる。「平安の貴族」によると、村上天皇の寵愛を受けた芳子は、父の藤原師尹が「ミッチリ仕込んだかいがあって、『古今集』二十巻、一一〇〇首を暗誦していたという特技があった」という。伊勢の斎宮は、帝の譲位で代わり、六条の御息所は前斎宮とともに京に戻ったが、間もなく病気になり、剃髪。源氏の君が見舞うと、前斎宮を「色めいた相手には…お考え下さいませんように」(瀬戸内寂聴訳)世話して欲しいと頼んで亡くなる。源氏の君が都に返り咲いても、不器量な末摘花の姫君を訪れない。二度と来るはずもないといって使用人たちが去っていき、落ち目に付け込み叔母が自分の娘の侍女になって九州に一緒に来ないかと持ち掛けても、誇り高い姫は拒む。道長の娘、威子が後一条天皇に入内するとき、選抜された女房四十人の中に道長の兄関白道兼の娘「二条殿の方」がその女房として同行。兄が健在であれば、「当然、女御として後宮に入った」に相違ない身分だったが、権力者の親を失うとその子の運命も大きく変転。久し振りに姫を訪れた源氏の君は、「道もわからないほど蓬の生ひ茂った宿ではあるが、昔に変わらぬ女主人の真心を尋ねて、自分こそ訪れて上げよう」(谷崎潤一郎訳)」の句を詠む。「ひたすら恥ずかしそうにしている姫君の様子が、やはりなんと言っても気品があるのも、奥ゆかしくお感じになるのでした。そういう点をこの方の取り柄としていじらしく思い、忘れずお世話しようと…可哀そうにお思いになります。」、源氏の君を信じて待ち続けた姫は報われ、姫を見捨てて去っていった侍従は、「あの時、もうしばらく辛抱してお待ち申し上げなかった自分の心の浅はかさを、身に染みて悔やんだ」(瀬戸内寂聴)。内大臣となった源氏の君は、石山寺を詣でる途中で、任期を終えて帰京する常陸介の一行と逢坂の関で出逢う。常陸介の妻となっていた空蝉に「わくらばに行きあふ道を頼みしも なおかひなしや潮ならぬ海(たまにあなたに行き逢いましたのを頼もしく思いましたけれども お目にかかることが出来ないとはやはり甲斐ないことです)の歌を届けると、「逢坂の関は一体どういう関なので かうも生い茂った木々(『嘆き』を木に見立ててある)の間を分けて行かなければならないのだらう」(谷崎潤一郎訳)と逢瀬の差し障りが多いとの歌を返す。

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