源氏物語とその世界(上) ファイナンス 2024 Nov. 53(13) 明石「独寝は君も知りぬやつれづれと思ひあかしのうらさびしさを」帝の生母の影響と言えば、道長の兄、「七日関白」藤原道兼亡き後の後継者争い。「天皇と摂政・関白」によると「長徳元年(995)…藤原道兼が没した後、…道兼の後継は…内大臣藤原伊周(二二歳)と権大納言藤原道長(三十歳)」で、「天皇の決断に大きな影響力を及ぼしたのは」、帝の生母で道長の姉、東三条院詮子。「詮子は早くから道長の才覚を高く評価しており、道兼没後も一条天皇に強く道長を推した。…結局…、内覧の宣旨が道長に下り、翌六月には右大臣となって、官職の面でも伊周の上位に立つことになった。」という。「大鏡」によると、詮子は道長に関白の宣旨を与えないのは「陛下ご自身のおんため実に不都合」だと語気を強め奏上し、更には帝の寝所にまで「はいらせたまひて、泣く泣く申させたまふ」たという。恩義に感じた道長は詮子に対して当然の道理以上にご恩報に努め、詮子が亡くなると「御遺骨までもお首におかけになってご葬儀に奉仕」したという。源氏の君は、須磨で僅かな家臣とともに寂しい生活を過ごしていると、大宰大弐(大宰府の次官)が都への帰路須磨を通り、その娘から「琴の音に引きとめらるる綱手縄たゆたふこころ君知るらめや」(ほのかに聞こえて来る琴の音に惹かされて、船を曳いている舟人たちも綱手縄を強めるし、又その綱と同じやうに私の心も此の處を立ち去りかねて躊躇してをりますのが、君にはお分かりでございませうか)との歌が届くと、「ほんたうに私を思ふお心があって、船の引綱のやうに躊躇しつつ立ち去りかねていらっしゃるなら、此の須磨の浦を素通りなさる筈はないであらうに」(谷崎潤一郎訳)との返歌。ある嵐の夜、亡き父帝が夢枕に立ち、ここにいてはいけないと言われる。すると娘を高貴な人に嫁がせたいと願う偏屈な明石の元国司が源氏の君が須磨にいると聞いて迎えに来る。明石に行くと、明石の入道の「邸宅の造作に凝らした趣向や、木立、石組、植え込みなどの風情、…お部屋の設備なども、申し分なく支度されていて、そうした入道の暮らしぶりなどは、なるほど都の高貴な人々の邸宅と変わりなく、優雅できらびやかな様子などは、むしろこちらが優れているようにさえ見え」(瀬戸内寂聴訳)る。(14) 澪標「数ならではなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」「澪標」とは、航路を示す道標。都に戻った源氏の君は、久しぶりに兄帝に面会。大納言となり、やがて摂政となるべきところ、これを辞退し、すでに引退していた舅(かつての左大臣)に譲り、内大臣となる。「王朝の貴族」によると、「官職の中で、別格として重視されるのが、大臣・大納言・中納言・参議…いわば国家の最高幹部会議員であり、政界の指導者グループ」といい、内大臣は太政大臣、左大臣、右大臣に次ぐ地位。最高幹部の一員となった源氏の君は、住吉大社に参拝。たまたま同じ日に明石の君が船で参拝に来るが、源氏の君の華麗な行列を見て、「身分の差をまざまざと見せつけられて、「こんな盛儀に、つまらない身でまぎれ込み、僅かばかりの捧げものを奉納しても、神のお目にもとまらず、数の内に入れて下さる筈もないだろう」(瀬戸内寂聴訳)といって参拝もできない。この「澪標」と(16)の「関屋」の有名な場面を江戸時代に俵屋宗達が描いた屏風絵「源氏物語関屋澪標図屏風」は国宝。丁度、11月16日から、丸の内の静嘉堂文庫美術館で開催される「平安文学、いとをかし―国宝「源氏物語関屋澪標図屏風」と王朝美のあゆみ」展で公開されている。源氏の君は、入道の屋敷に住み、そこで明石の入道が「私の娘は此の明石の浦でつくづく思案に耽りながら夜を明かしてているのでございますが、そのうらさびしい独寝の味を君もご存じでいらっしゃいませうか」(谷崎潤一郎訳)と詠み、打ち解ける。入道の望み通り、その娘(明石の君)と結ばれ、やがて娘は妊娠。やがて、母弘徽殿の太后も物の怪に悩み、世間も不穏となり、「御目の御病気までが、このころまた重くおなりになって、帝はいよいよ心細くおなりに」(瀬戸内寂聴訳)なって、源氏の君を都に呼び戻す。実際、帝の眼病が政治に影響を与えることがあって、「天皇と摂政・関白」によると道長は、関係の悪かった三条天皇が眼病になると譲位を促し、様々な祈祷や投薬が試みられたものの、帝は「眼病の状態も思わしくなく、寛仁元年(1017)四月二九日には出家を遂げ、五月九日、…死去した」という。明石の君が産む娘が、後に時の帝の中宮となり、やがて源氏の君の家の繁栄をもたらす。
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