(須磨で絵を描く源氏の君。須磨で描いた絵が「絵合」の帖で源氏方の勝利の決め手となる。出典:与謝野晶子訳「新訳源氏物語 上巻」)新訳源氏物語 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)(10) 賢木「■垣はしるしの杉もなきものを(11) 花散里「橘の香をなつかしみほとどぎいかにまがへて折れる■ぞ」す 花ちるさとをたずねてぞ訪ふ」(12) 須磨「心ありて引く手の綱のたゆたはばうちすぎましや須磨の浦波」 52 ファイナンス 2024 Nov.源氏の君が通うのが絶えた六条の御息所は一切を捨てて娘の斎宮とともに、伊勢へ下ろうと決意。源氏の君は御息所を訪ねるが、六条の御息所は「ここの榊垣にはしるしの杉も立ててありませぬのに、どう間違へて榊を折っていらしつたのでせうか」(谷崎潤一郎訳)と詠み、伊勢へ旅立つ。やがて、父帝の御病気が重くなり、朱雀帝(源氏の君の兄)に御遺言をして世を去ると、新帝の外戚、弘徽殿の大后と右大臣一家が「一手に政権をおさめ」(円地文子訳)、時流に敏感な人々は源氏を離れていく。「一手に政権をおさめる」と言えば、「王朝の貴族」によると、道長の父兼家は、東宮の外祖父のときに、息子たちと謀って、寵愛する女御の死を悲しむ花山天皇に出家を勧め、内裏から連れ出して退位させて、一条天皇の外祖父となると、長年兄道兼に抑圧されて「不遇だった反動で、その子供たちの位階官職を強引なまでに引き上げて行った。」という。右大臣の娘、朧月夜は尚侍(後宮の事務管司である内侍司の長官。天皇や東宮の妃である立場の女性に与えられる称号に変わってきたという。)となって宮中に召されているのに、源氏の君と忍び逢い、右大臣邸という大胆すぎる密会の現場を父右大臣に見つけられる。怒った右大臣が弘徽殿の大后に言いつけると、「積もる恨みが一時にほとばしり出て、今度こそ源氏を失脚させようと決心」(円地文子訳)する。臣下が尚侍に通うとどうなるか。「大鏡」によると、三条院の尚侍のところに通った参議源頼貞について、尚侍の懐妊の噂を聞いた三条院に本当だろうかと問われた道長は、尚侍に確認し、「まことにさぶらひけり」と報告。殿上人だった源頼貞は「この御過ちにより、殿上もしたまはで、地下の上達部」とされたという。源氏の君は先帝の女御の妹の三の宮とも宮中で関係を持っていた。時流が変わり、「この頃世の中を面白くなく思ふ極に達している」(与謝野晶子訳)源氏の君は、この人のことが思い出されて訪ねる。夜も更けて語り合っていると、時鳥の声が聞こえてきて、「私も、昔の人の袖の香りのすると云ふ花橘の匂に、故院のおんゆかりのお方をおなつかしう存じ上げて、此方へお伺ひ致しました」(谷崎潤一郎訳)と源氏は詠む。優しくもてなされた源氏の君は「心ならずも訪れないうちに、心変わりしていく女人も多い中にと、しみじみ源氏もこの女の人柄をいつくし」(円地文子訳)む。そんな人柄が好まれてか、この人は、後に源氏の君が六条に広大な屋敷を持つようになると、そこで西の対に住いを得て、息子夕霧の良き相談相手にもなる。いろいろな女君と結婚している源氏の君と花散里との間に子供はいないが、子供次第で妻の立場は変わるようで、「王朝の貴族」によると、道長の父、兼家の妻の一人で「蜻蛉日記」の作者、藤原道綱の母について。兼家は彼女と結婚する2年くらい前から道長の母、時姫と結婚していて、「兼家の妻たちの中では時姫が正妻というように見られているけれども、それは彼女の生んだ子女がのちになってそれぞれ栄達しただけのことで、なにも正式に正妻という地位が認められたわけではない」という。兄帝の生母、弘徽殿の女御の影響が強くなり、様々な面倒事が起きてくるにつけても、「虚心平気でいてもこの上どんな迫害が加えられるかも知れぬ」(与謝野晶子訳)と源氏の君は無位無官となって都を去り、須磨に移る。
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