ファイナンス 2024年11月号 No.708
55/106

(『寛平御遺誡』のうち菅原道真を特に登用したことが記された部分)寛平遺誡 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)源氏物語とその世界(上) ファイナンス 2024 Nov. 51(9)葵きるのも、殿上人(天皇の御座所、清涼殿の殿上の間に昇ることが出来る「一種の天皇の側近の人」で非常な名誉。)だったからか。当時、帝の子息は、元服の際、正五位下直叙という扱いで、初めから殿上人。財団法人味の素食の文化センターの「日本の食事文化」によると、宴会の際も、「上級の公家たちは…床几風の椅子に腰かけ…下級の者は、地面に直接敷物を敷いて」座るという歴然とした差があり、「下級の官人のことを地下(じげ)、上級の公家を殿上人」と呼んだという。「天皇と摂政・関白」によると、その殿上人である「五位に昇る年齢の平均が、十世紀以前は二〇代後半から半ばだったのに対して、以後は一〇代に下がり、そこから従三位まで昇るのに要する年数も、…大幅に短縮され」た。というのも、「十世紀末以後になると、…、皇族や摂関の縁者(血縁・姻戚関係にある者や従者など)に特に有利となるような理由で加階される者が目立つように」なったからだという。名を名乗らなかった女は天敵、弘徽殿の女御の妹で東宮への入内間近の右大臣の六の君、朧月夜。当時、貴族の結婚では女性が年上というのも珍しくない。紫式部が仕えた彰子の夫、一条天皇には、元服直後に道長の兄藤原道隆の娘、4歳年上の15歳の定子が入内。源氏物語では、4歳年上の正妻、葵上は打ち解けず、源氏の君も余り家に寄り付かず、恋人たちの家に通う。それでも葵上は子供を授かる。当時の源氏の君の恋人、東宮后だったが夫に先立たれた六条の御息所は、賀茂祭に先立つ斎院の御禊(「賀茂明神に奉仕する斎院が、賀茂方に出てみそぎをする行事…その美々しい行列を見物するのが上下貴賤の楽しみの一つ」だったという。)源氏の君の行列を見る車の場所争いで、正妻の家臣に恥をかかされ、生霊となって祟り、葵上にとりついて命を奪う。同じ祭りをライバル関係にある女性が見物することもある。「蜻蛉日記」によると、道長の父兼家の妻の一人であった藤原道綱母が賀茂の祭りに行くと道長の母時姫も出てきて、そうらしいと見てとって、向かいに車を立てて、和歌のやり取りをして、それを聞いた兼家が面白がったという。祟りといえば、菅原道真の祟り。以下、「天皇と摂政・関白」による。道真を引き立てた宇多天皇は寛平九年(897)にその子醍醐天皇に譲位した際に『寛平御遺誡』で「日常生活や政治などの様々な面での心構えを記して醍醐天皇に与えた」という。その中で、菅原道真について、「私は彼をとくに登用し、皇太子を立てる時も譲位を思い立った時も、彼一人に相談し、的確な助言を得た。彼は私にとっての功臣であるだけではなく、新君にとっても功臣であることを忘れるな。」としていたが、醍醐天皇の「延喜元年(901)…道真を太宰権帥に左遷する詔が出され、…二年後の延期三年二月、五十九歳で没した」。その後、「醍醐天皇後半の朝廷は、菅原道真の怨霊にどのように対応するか…が、最大の課題だった」という。延期九年(909)、39歳で藤原時平が亡くなり延長元年(923)「二一才の皇太子…が病に伏し、その日のうちに没」すると、「世間の人々はみな道真の霊魂の怨みによるものと噂した」という。そこで、「朝廷は、…道真の名誉を回復してその祟りを鎮めようとした」が、更に、「延長八年…日照りに対して公卿が殿上で雨乞いのところ…にわかに黒雲が湧き起こり、大雨と共に雷声がとどろいた。雷は清涼殿の南西の柱に落ち、大納言藤原清貫が胸を割かれて死亡、右中弁平希世も顔に大やけどを負った。その他紫宸殿にいた者にも死者やけが人が得て、宮中は騒然」となり、醍醐天皇はこの直後から病床に臥し、「その七日後には死去」したという。そのためか、10世紀後半以降は、祟りを避けるため、「朝廷での政争の敗者の扱いには細心の注意が払われ」るようになったという。

元のページ  ../index.html#55

このブックを見る