(源氏物語の写本「河内本 第1、尾張徳川黎明会」の「桐壺」の帖)源氏物語:河内本 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)(2) 帚木「帚木のこころをしらで園原のみちにあやなく惑ひぬるかな」 48 ファイナンス 2024 Nov.れ、父帝からも愛される主人公は、後に父帝に入内した、母の親戚で母に似ているという藤壺に惹かれる。源氏の君を可愛がる帝は高麗人の人相見の「王者の相がある人であるが、さうなると不詳のことが起こらぬとも限らない」(与謝野晶子訳)と聞き、源氏の君にはしっかりした後見人がいないとして、臣下として元服させて左大臣(律令制では太政大臣に次ぐ職だが、太政大臣は適任がいなければおかれない。)の娘と結婚し婿となる。女御・更衣は住んでいる御殿の名前で呼ばれるが、左大臣に次ぐ右大臣の娘が帝に最初に入内し、弘徽殿の女御として、東宮(源氏の君の異母兄)の母。「源氏物語の舞台装置」によると「どの建物に誰が入るか」は、「身分や宮中に入る順番が関わり、時に権力者や天皇の母后の意向」にもよったといい、弘徽殿は「後宮最上位者の生活の場」、桐壺は弘徽殿のような「殿」ではなく、小さな「舎」で「帝の住まい清涼殿から最も離れた辺鄙な場所」。後見人がなぜ必要なのかについて。「王朝の貴族」等によると、「貴族の邸は多く娘に伝えられ、娘はそこを拠点として婿を迎え入れ」、「…生まれた子供は外祖父が第一の責任者として養育する」というから後見がいないと安定した生活ができない。摂関政治の時代、「外祖父を主軸とする外戚の一族が、一家の女子に生まれた幼児の養育・後見に当たるべき義務と権利を持っていた」といい、一条天皇の第一皇子は「御学識はたいそうすぐれ 御性質も大変りっぱな方」だったが、外伯父藤原伊周が道長との権力闘争に敗れ失脚し、清少納言が仕えた母中宮定子が亡くなったこともあり、「後見の不足ということで、東宮に立つ機会を逸し」、二十歳で亡くなったという。この物語のモデルについては、「王朝の貴族」によると、母が「更衣」で皇子として生まれ、「源朝臣の姓を賜って臣下」となって左大臣となるが、後に藤原氏に失脚させられた源高明もその一人だという。雨の夜に16歳の源氏の君が生涯の親友、ライバルでもある義兄(正妻葵上の兄)、頭の中将(二人いる蔵人所の長官(蔵人頭)の一人、近衛中将を兼ねる。)や「名高い好色男」(与謝野晶子訳)らと女性遍歴を語り、品定めをする「雨夜の品定め」と言われる「不適切にも程がある」帖。蔵人所とは、律令制に定めのない令外官の1つで帝の代替わり毎に選ばれる。五位以上が殿上人となる中で、蔵人は六位でも清涼殿への昇殿が認められる。「現代語訳 小右記」によると、最高幹部の一員である参議には多く蔵人頭から昇進したが、有能で信任の厚いとかえって、「なかなか参議に昇任できな」いこともあったといい、三たび蔵人頭となり、「博学と見識は藤原道長にも一目置かれた」という右大臣藤原実資がその例だという。頭の中将が語った、女の子もあったのに行方しれずになった気の弱い女の話。中流の女にこそ掘り出しものがあるという話、子供っぽい無邪気な女を好みの女に育てていくのがいいという話、荒れはて草深い家に、思いもよらぬ可憐な女がひっそりと閉じこもっているのは非常に珍しいという話などその後の源氏の君に深くかかわりあいがある女性との出会いの伏線。「身分ある人については、その実名を呼ぶことは極めて失礼なこととされているから」登場人物の多くは官職名で示され、主人公も源氏の君などと呼ばれるが、「代々の天皇の子孫はすべて源氏を名乗るというならわし」があるからで、名前はついにわからない。いまだと警察沙汰になりそうだが、「中流の女にこそ、掘り出しものがある」と聞いた源氏の君は、方違えのために移った邸で主の父伊予の介の後妻、空蝉の寝所に忍び入り、「宥めすかして思いをとげる」(円地文子訳)。数日後、再び、邸を訪ねたが、空蝉は決して逢おうとはしない。源氏の君は、「帚木と云ふ木の性質を知らずに園原へ尋ねて行って、徒に道に迷ったことよ」と詠むと「かずならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるに
元のページ ../index.html#52